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優しくて可愛い妹がお兄ちゃんに傘をくれたので
大きな屋敷の前に、スーツ姿の青年が立っている。立っていると言うか、背中を丸めてびくびくとしている。
その青年をツインテールの女の子が睨みつける。
「何それ。もう一度言ってみなさい」
「今言った次第でして」
「いいから!」
「……仕事終わりに、仲のいい4人くらいでちょっと遊んでおりまして」
「うん」
「チャンバラごっこをしたんですよ。傘で」
「傘で?」
「そしたら……あなたのお兄さまの傘がですね、折れてしまいまして」
「で?」
「でもお兄さまは、折れた傘を差して帰ると聞かなくて」
ツインテールの女の子は、青年の眼前に人差し指を突きつけた。
「バッカじゃないの。いい年した大人でしょ。燈次兄の会社にはまともな社員が誰ひとりいないってこと?」
「いやそれは」
スーツの青年が食いさがろうとするので、瑠璃華は手を払うように動かした。
「その先をどうしても言いたいなら、アタシのメイドに話しておいて。アタシ今、やらなきゃいけないことがあるの!」
ツインテールの女の子はキンキンとした声で、スーツの青年を追いかえす。そして彼女は足早に、屋敷の中に入っていった。
彼女はある一室のドアを叩き、そうっとベッドを覗きこむ。
布団がもぞもぞ動いたと思うと、中から声がした。
「どうした、瑠璃華」
途端、瑠璃華は甘い声を出す。
「燈次兄―! 体調大丈夫?」
「雨に当たりすぎたせいでイマイチだ。さすがに今日の俺はバカだった」
「そんなことないわ。バカなのは燈次兄を止めなかった周りよ。燈次兄は1ミリだって悪くない」
「そうだろうか。うーん、頭が痛くて何も考えられん」
「眠って、アタシの燈次兄。アタシが見守る中で……」
燈次兄が寝息を立てはじめた後も、瑠璃華は彼の顔を眺めていた。
「ああ燈次兄、長いまつ毛が美しいわ。まるで芸術作品ね」
瑠璃華は他人にツンとした態度ばかり取っているが、兄に対してはデレデレである。
「アタシは心配よ。燈次兄はいつも、傘で棒高跳びごっこをしたり、野球の素振りを真似て木にぶつけたり。いつも傘を壊して、寝込む羽目になっちゃうのよね。どうしたらいいのかしら」
どうも何も、兄が社会人としての分別をつければよい話である。
だが、お兄ちゃんを全肯定する瑠璃華は、兄が悪いとは考えない。
「悪いのはやっぱり……傘、ね」
その翌日――。
「瑠璃華、本当にもらっていいのか?」
「もちろんよ、燈次兄」
燈次は傘を広げる。緑色の布に、てるてる坊主の絵が描いてある。
「瑠璃華ありがとう。この傘は決して使わないよ。少しでも汚れたら困るからな」
瑠璃華は肩をすくめてクス、と笑った。
「使ってよ。そのために買ってあげたのよ」
「分かった。雨の日も、晴れの日も、俺はこの傘を持ってまわるとしよう。そして行く先々で自慢するんだ。可愛い妹からもらった、この世でたったひとつの傘だとな」
「大袈裟なんだから」
「絶対に失くしたり、壊したりしないぞ」
そう言って燈次は傘に頬ずりをした。
そして数日後。
「楽しみね、話題のカフェのフレンチトースト」
瑠璃華はルンルンと跳ねるように歩く。
「足元に気をつけろよ。水たまりがあるかもしれん」
「心配性ね、燈次兄。雨の気配なんてないじゃない」
「風薫る爽やかな日、なんてニュースでは言っていたが。6月の晴れ間なんて、深夜に食べるポテトチップス並みの早さでなくなるからな」
「天気が突然変わるかも、ってことね」
「でも安心しろ。俺はスーパーアイテムを持っている」
そう言って燈次は手に持った傘を広げてみせる。この傘はもちろん、瑠璃華からのプレゼントだ。
「本当にどこにでも持っていくのね」
「たくさん使えと言ったのは瑠璃華だ。……お、来たぞ」
そう言ってふたりは電車に乗りこむ。瑠璃華は先に席に座り、後から来る燈次を待つ。
燈次はすぐ座らず、ドアの辺りでもぞもぞしていた。
「靴に小石が入ったみたいだ」
そう言って燈次は、傘を椅子の端の手すりにかけた。そして壁に手をつき、靴を脱ぎ、中の異物を取ろうとする。
さりげない仕草も瑠璃華には特別に映る。
何してもカッコいい燈次兄。最高!
瑠璃華がひとりではしゃいでいる内に、燈次は靴を履きなおした。
瑠璃華は慌てて立ちあがり、彼のそばの傘を指さした。
「危ない。燈次兄、傘を忘れるところだったでしょ」
「忘れるものか。見ているのは小石でも、意識は常に傘に向いていた」
「それならよかった。ところで、その手に持っているのは?」
「保護用のカバーだ。大事な傘を汚すまいと思って持ってきた」
「アタシがつけてあげる!」
瑠璃華は燈次の背中を押し、席に座るように促す。
そして瑠璃華は、保護カバーを傘に被せながら、燈次の隣に向かって歩く。
傘は今、持ち手の部分を除いて、黒っぽいカバーに覆われている。
燈次は傘を受け取り、しっかりと抱きしめた。何がなんでも失くさない、という意気込みを感じられた。強い意志に満ちた横顔を、瑠璃華は飽きずに眺める。
電車は賑やかな街並みを越え、新緑の群れを過ぎ、海岸線沿いへと到達する。扉が開くたび、湿った香りが漂ってくる。
「せっかくの海なのに、空が暗くてイマイチね」
「ん……」
「晴れてたら綺麗だったのに。わざわざ電車なんて庶民臭い物に乗ったのは、景色が目当てだったのに」
「……ん」
「燈次兄?」
「瑠璃華ごめん、トイレ行きたい」
「えっ。あと数駅で目的地だけど」
「限界だ。今、降りさせてくれ!」
そう言ってふたりは慌ただしく降車した。
20分後。小休憩の後、ふたりは駅のベンチで次の電車を待っていた。
ゆっくりとした空気感を楽しんでいた瑠璃華だが、ふと嫌な予感に襲われる。
「燈次兄。傘は」
「それなら……ここだ!」
そう言って燈次は傘を高く掲げる。ベンチの陰に隠れて見えなかっただけらしい。
「なーんだ。てっきり」
「失くすわけないだろう」
燈次は傘をぎゅう、と抱きしめた。
よかった、と瑠璃華は胸を撫でおろす。自分があげた物を目の前で失くされるのは嫌だった。でも何より、失くしたことで燈次が悲しむのはもっと嫌だった。
「燈次兄の傷つく顔を見ずに済んでよかった」
そう呟き、燈次の顔を覗きこむ。燈次は難しい顔をしていた。
「この傘の持ち手、こんな色だったか?」
「え?」
そう言って燈次は保護カバーを外す。すると……。
「何だこれ!」
知らない柄の傘が出てきた。
燈次はブツブツと呟く。
「俺が電車内で靴の小石と格闘していたとき……。あのとき、そういえば別の傘がもう1本、手すりにかかっていたな」
「傘は2本あったの?」
「あのとき別のほうを持ってしまったのか。何故気づかなかったんだ。俺は!」
「どうしよう」
「先ほどの電車は終点に着くころだ。終着駅に電話をしてみよう。車内の忘れ物の確認は行っているかもしれない。……」
そして……。
ふたりは終点駅で慌ただしく電車を降りる。
駅員と少し話した後、燈次は大きな声を上げた。
「あったー!」
そう。燈次の傘は戻ってきたのだ。
燈次は傘に頬ずりをする。
瑠璃華はくす、と笑う。
「ちょうどよかった。あそこに見えるカフェが、アタシが行きたかったカフェなのよ」
「海沿いのカフェか。雰囲気があって最高だな」
「テラス席もあるの。晴れていれば格別の景色だったんだけど」
「このカフェは小高い丘の上にあるから、海の広さが堪能できるな。坂の下は車道か。車通りもさほど多くない。通るとしたら漁港に向かうトラックくらいか。静かでいい場所だ」
燈次たちはカフェのテラス席に座る。トーストの香りに交じって、湿った匂いが漂っている。
瑠璃華は自分のツインテールをしきりにいじる。湿気が気になるらしい。
「せっかく来たのに、全然晴れてこないわ」
「雲がかなりあるな。でも瑠璃華。雨が降っても大丈夫だ」
燈次はバッ、と傘を広げてみせる。てるてる坊主の模様がにっこりと顔を出す。
「やっぱりその傘、いい柄ね」
「俺の愛する妹は贈り物のセンスも抜群だ」
ふふ、と瑠璃華は笑った。燈次もつられて目を細める。
その和やかな空気を裂いたのは、強い風だった。
風はゴウ、と音を立て、燈次の手を強引に開かせた。
傘がふわりと宙を舞う。
傘は蝶のように飛んで、丘の下に伸びる道の、ガードレールに引っかかった。
「俺の傘が!」
燈次は青い顔をし、テラス席の柵から身を乗りだした。危ない、と瑠璃華が叫んだら、燈次は身を引っこめた。
しかし素早く坂を駆けおりて、瞬く間に歩道へ踊りでる。
燈次は息を切らし、傘に向かって走っていく。
あと少しで傘に到達する、というとき。またひとつ、強い風が吹いた。
傘はひらりと回転し、車道に落ちる。
燈次は小さく叫んだ。
しかしその声を消したのは、重々しいエンジンの音だった。
「あっ……………」
トラックが去った後、燈次はしばらく車道のコンクリートを見つめていた。
傘に目を向けたのは、その30秒後のことだった。
それは無残にも折れ曲がっていた。可愛らしい柄の布にも、車輪の跡がくっきりと残っている。
燈次は傘を抱きかかえ、歩道に戻る。
遅れて到着した瑠璃華が、彼の頭上から声をかける。
「落ちこまないで燈次兄。傘なんていくらでもあるんだから」
「これは俺の特別だ」
「他のを買えばいいわ。高級ブランド品だって、宝石をちりばめた物だって、いくらでも選べるわ。アタシたちはお金持ちなんだもの」
「でもこの傘は世界にたったひとつだ。瑠璃華が、俺の可愛い妹が、心をこめて選んでくれた……」
うっ、と燈次は呻いた。
そのとき、空から雨が降ってきた。
燈次の頬をいくつも雫が伝う。それが雨なのか、涙なのか、瑠璃華には分からなかった。
帰宅後も燈次は傘を抱きしめていた。
念入りに洗ったものの、車輪の跡は布の部分にくっきりと残っている。
大きな穴も開いている。支柱だって折れている。雨傘としての機能はもう果たせない。
燈次は手で押し広げながら傘を開く。そして、頭の上に掲げてみせる。
「俺はこれからもこの傘を使いつづけるぞ」
「燈次兄が濡れちゃう」
「構わない。俺は永遠にこの傘と一緒だ」
燈次は何もない壁を見つめて喋る。彼の目は、何を使っても動かない、強い意志に支配されていた。
「大事にしてもらえるのは嬉しいわ。でも、こんなのは」
瑠璃華が困っていると、後ろからのんびりとした声が聞こえた。
「あのー」
そこにいたのはメイド服の女性。瑠璃華は彼女にキツい眼差しを向ける。
「何よ、さと。今忙しいの」
「あの、思ったんですけど。その傘、別の物にリメイクするのはどうでしょう」
燈次はやっと顔を動かした。
「リメイク?」
「布の部分を……綺麗な部分の布をなるべく多く残せるように、ハサミでチョキチョキして。足りない部分に別の布を使えば……。見てください。エコバッグのできあがり!」
さとがじゃーんと言って見せた完成品に、燈次は感心した声を上げた。
「おお!」
「これなら瑠璃華さまの贈り物と、ずっと一緒にいられますよ。傘だったら持っていけないような場所だって」
そう言ってさとはエコバッグを折ってみせる。小さくなったそれを燈次に手渡すと、燈次は目をキラキラさせた。
「たしかに。高級レストランで着席後も傘を抱えていたら、店員に怒られたもんな。ありがとう、さと」
燈次はさとに笑いかける。さとも満足げな表情だ。
瑠璃華は少し頬を膨らませていた。自分以外の人が解決方法を提示したことを、不満に思っているのだ。
しかし燈次の笑顔を見ていると、まあいいか、と思えた。
「そういえばアタシ、何で燈次兄に傘をあげたんだっけ?」
思いかえしてみると、燈次が傘をすぐ折ってしまうせいだった。
燈次は傘をチャンバラごっこに使って駄目にして、風邪を引くような男だ。だから瑠璃華は、大事にしたくなる一品をプレゼントしようと思ったのだ。
「結局、アタシの傘は別の形になっちゃった。燈次兄の傘を大事にする計画は、失敗だったかしらね」
しかし。燈次も大人である。
大人には、学習能力という素晴らしいものがある。今回の一件で燈次は学んだ。
傘を壊して風邪を引くと、家族が心配する。
なので……。
燈次は普段使い用の傘とは別に、チャンバラごっこ用の傘を会社に置いておくことにした。
これでチャンバラごっこで壊しても、風邪を引かなくて済む。
めでたしめでたし。
と言いたいが、燈次は普通に上司から怒られた。
そりゃ、そうである。
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