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何者にもなりたくなかった。小学2年生の時、将来の夢の欄に『サラリーマン』と書いた。当然のように咲いては枯れる花を羨ましく思った。そういう人。それが僕だった。
陽はまだぬるく照っている。土手の下では小学生の集団がサッカーをしている。幼稚園児とその母が四つ葉のクローバーを探している。みんな笑っているけど何がそんなに愉快なのか全く理解出来ない。多分僕には普通に生きる才能が無いんだと思う。
放課後に僕はいつも土手の草むらで寝転びながら本を読む。ジャンルはまちまち。今日鞄から取り出したのは、前から気になっていた学園モノのライトノベル。別に読書が好きなわけじゃない。夜が訪れるまでの間、現実を忘れるのに丁度よかっただけ。学校終わりに図書館に行って本を漁り、適当に一冊決めて借りる。基本その日の内に読み終えて翌日返す。そしてまた本を漁る。楽しいからやってるんじゃない。僕にとっては歯を磨き、顔を洗うようなことだ。
「ねぇ?」
急に背後から話しかけられ、驚いて振り向いた。アスファルトの上にはブラウスを着た巻き髪ロングヘアの女が僕を見下ろす形で立っていた。それも金髪の。見た感じ年上だろう。一目で苦手なタイプだと分かった。
「なん……ですか……?」
人と喋るのはやっぱり慣れない。女の右手には赤いチェック柄のハンカチが握られていた。
「これ、落とさなかった?」
僕のだった。
「え、あ、ありがとう、ございます……」
どぎまぎしながらも立ち上がってハンカチを受け取る。頼むから、そのまま立ち去って欲しい。念じるが去ってくれない。それどころか女はニヤニヤとからかうような表情をしながら、僕の片手にあるライトノベルの表紙を覗いてきた。当然、読んでいるライトノベルなんか人には見られたくはない。
「なぁに読んでたの?」
本を背に回して隠すが反対方向から回り込まれてしまう。僕は体を逸らせるなり本を持ち上げるなりして必死に抵抗した。
「ねぇいいじゃん。」
「いや、その……あっ!」
が、無理に抵抗したせいで本が手から零れ落ちてしまった。これではアスファルトの汚れがついてしまう。僕は憤慨した。
「これ図書館のなんですよ、なんてことしてくれるんですか。」
「じゃ、おとなしく見せてくれればよかったのに。」
わざとらしくこちらにニヤリとした後、女は本を拾ってぱらぱらと捲る。僕は苛立ちと恥じらいから顔をしかめた。女は適当に捲りながらわざとらしく「ほうほう」と言った。それにますます腹が立ってきた。しばらくして女は本をパタンと閉じ、僕の顔を見た。そしてまたあの馬鹿にするような、嫌な笑顔を見せつけてきた。
「やっぱり思った通りの人だ。」
「それってどういう……」
「君、陰キャでしょ?」
うわ、初対面とは思えないぐらいぶっこんで来るなぁ。あぁ。この女も面倒な奴なのか。適当に絡んできて人を馬鹿にし、おもちゃとして使えないと判断したらすぐに切り捨てんだろうな。僕は威嚇するように睨んだ。
「そんな怖い顔しないでよ。」
「初対面の人に言われたら誰だってしますよ。」
「事実を言っただけで別に馬鹿にしてるわけじゃないじゃん。 それにぃ、睨みつけてくるってことは自覚あんでしょ?」
女はしたり顔で指摘してきた。まったく嫌な人だ。僕が言い返せないで突っ立っているのを他所に女はアスファルトから降りて座った。
「ほら座りなよ。さっきのは悪かったって。」
女はどう考えても悪いとは微塵も思っていないような顔してポンポンと軽く地面を叩いた。僕は不服ながらも隣に座った。
「いつもここで読んでるの?」
「まぁ。」
「だよねぇ。ここ通るとき見るもん。」
「もう用は済みましたよね?」
僕は地面に顔を向けたまま返事をした。いつもの平穏を乱された僕からすれば目の前の女は邪魔でしかない。けど女は「別にいいじゃん見てるだけだし」と言ってなかなか離れない。それどころか女はズケズケと僕のプライベートな部分に踏み込んでくる。
「そういや名前聞いてなかったね。名前は?」
「桜井。」
「アタシはって横峯 杏ってゆーんだぁ」
「へぇ」
「北中?」
「そうですけど?」
早口でわざと拒絶しているような雰囲気を出す。
「アタシも北中だったんだよね。いやぁ懐かしいなぁ。あっ、今のアタシは北高校!」
いや知らねぇよ、と僕は怪訝な顔をした。瞬間、不意に横峯が僕の右腕を凝視しだした。何かと思っていたら急に横峯が僕の袖に触れてきた。僕は咄嗟に袖を引っ張ろうとしたが、捲られるほうが早かった。
「腕、怪我してるみたいだけど?」
「転んだだけですよ。」
横峯の顔からニヤニヤが嘘のように消えた。
「絶対そんなわけない!」
横峯が詰め寄ってきた。
「いいだろもう!」
「きゃあ!」
思わず僕は声を荒げて思い切り手を振りほどいてしまっていた。直後、我に返って僕はたじろいだ。
「あっ、いや、ごめんなさい……。」
怖くなって僕は逃げるようにそそくさとその場を離れ、そのまま真っ直ぐ帰った。今日のことは早く忘れたかった。本も手に付かないほどだ。だが、頭から消そうとすればするほど謎のもやつきが増してきた。本当にあの女はなんなんだ。夕食を取っている間でも寝る前でもそれが消えることは無かった。
あれから僕は土手で本を読むのをやめ、学校が終わったら逃げるようにすぐ帰って本を読むでもなくぼんやりとテレビを見て退屈な現実を忘れようとすることにしていた。本を借りようにもあの日のことを思い出してしまい気が引けた。
そして5日が経った。いつも通り僕は帰路についていると背後から聞きなれた声がした。振り向こうとした瞬間、急に背中を思い切り叩かれた。よろけながら振り向くと、そこには今ここで絶対に会いたくない人がいた。
「久しぶり、探したんだぞぅ? いつもの場所にいないからどこ行ってたのかと思ったら……。」
「横峯かよ……です、ね……。」
敬語とタメ口の混ざった謎の返事をしてしまう。
「よこみね『さん』じゃないの?」
対して横峯からは謎の角度からの突っ込み。それにしても、相変わらずイライラするような喋り方と表情だ。何でこいつはここまでしつこく絡んでくるのか。頭おかしいんじゃないか。
「いいだろもうって言ったじゃないか……ないですか。」
「何その喋り方っ!」
知らずの内に動揺が出てしまったのか、タメ口と、取ってつけたかのような敬語と、カッコ悪い言葉が連続で出てくる。それを見て横峯は小馬鹿にするよう笑う。
「いいだろ別に。」
「それにいつの間にか先輩にタメ口使っちゃって。いつからそんな偉くなったんですかぁ?」
「いい加減にしろよ。」
煽ってくる横峯に苛立ちを隠せない。正直悔しい。
「うっわめっちゃキレてんじゃん。ウケるんだけど。まぁまぁ落ち着きなって。」
怒るほど横峯はもっと笑う。このまま笑い死ねばいいのに。そんな下らないことを考えていると、いつの間にか横峯は僕に背を向けていた。そして言った。
「ほら行くよ。」
「どこに?」
「いつものとこ!」
前を歩き始める横峯を見て、ため息をしながらも僕は大人しくついていった。ついていく義理なんて何も無いのに。
今日の土手はいつもと違って殆ど人がいなかった。空が曇りを見せているからだろうか。二人同時に原に腰かける。横峯は足をだらんと伸ばして空を見上げた。僕は地面をつまんなそうに見るだけだった。
「いっつもここで一人だったよねー。」
「そうだけど?」
「部活とか入ってないの?」
「入ってない。」
「えー入ればいいのにー……。」
「やだ。」
本当にどうでもいいような会話のキャッチボール。世の中は皆そんな建設的じゃない会話ばかり繰り返しているのだろうか。嫌々と惰性で話しを続けている中、油断している僕を刺すかのように横峯が質問を投げつけてきた。
「友達と遊ばないの?暇でしょ?」
たったの一言。だが今の僕にはグサグサと刺さる一言。けど、ここで明らかな動揺を見せたら弱みに付け込まれる。だから僕は間髪入れぬように頑張って答えた。
「慣れあうのは嫌いなんだ。」
けど、頑張って出せたのはこんなダサい台詞だった。顔が赤くなる。当然気づかれた。
「いないんでしょ。」
「なわけ……。」
反論するもすぐに遮られてしまう。
「全部お見通しなんだよね。まっ、陰キャクンだからいなくて当然か。」
「関係ないだろそれは!」
僕がキレると横峯があざとくこっちを見てきた。それに釣られて僕も横峯の顔を横目で見た。
「ってことはアタシが友達第1号ってことじゃん!」
「僕は友達だと思ってない。」
「いやぁ嬉しいなぁ嬉しいなぁ!」
わざと僕の発言が聞こえていないフリをする横峯に僕はわざとらしく舌打ちで返した。横峯はそれが気に食わなかったのかムスッとした。
「てか桜井くんとずっと喋ってて思ったんだけどさぁ、なんか受け答えがひねくれてるよねぇ?」
「だから何?」
「ほらほらそういうとこ!」
横峯が僕を指さす。かと思えば、急に体を僕に摺り寄せるよう近づいてきた。
「なんか嫌なことでもあんじゃないの? 教えてよ? 友達からのお願いだよ?」
「そんなもん……。」
「あるでしょ? 分かるよ?」
更に体を近づけてくる横峯。僕は思わず目を逸らす。それを見て横峯はより得意げになる。
「言う訳ないだろ。」
「ひどぉい。」
「酷くて悪かったな。」
「むー……本当に悩みがあるならお姉さんに相談してくれてもいいのにぃ……。」
「ないよ。」
「ほんとかなぁ。」
異様な程に詮索してくる横峯。余計それが嫌な僕。
「友達いないって言ってたし……いじめられてる、とかないの?」
「ないよ。」
何とも答えづらい質問にはぐらかすよう返した。
それからはしょうもない一問一答をずっと繰り返していた。それに飽きた僕は、最終的に一方的に切り上げてそのまま帰った。家に帰っても何も無いのに。
翌日。昨日と何ひとつ変わらない曇り空を見て今日は会いたくないと思っていたのだが、それでも横峯は背後にいた。そしていつもの場所でいつものように体育座りで話すことになった。
「今日学校どうだった?」
「どうもない」
「もうちょいなんかあるでしょ?」
「ない」
またどうでもいいような会話だけか。無駄だから適当に切り上げて帰ろう。と思った所で、横峯の方から尋ねられた。
「そうだ! 桜井くんさ、いっつも本読んでたよね? 今度オススメの本教えてくんない? こう見えてアタシも本好きだし。そうすればもうちょっと桜井くんのこと知れそうだと思うんだ!」
「なにそれ。」
冷たく返事。当然だ。この女は初対面の男の読んでいる本を勝手に覗いて馬鹿にしてきたのだから。こんな女に本を貸してもメリットなんて無いんじゃないか。けどその時、不思議なことに一度信用してみてもいいんじゃないかと真逆の考えが不意に浮かんだ。これが気まぐれというやつなのか。
「じゃあ取り敢えず。」
僕は躊躇いながらも初めて会った時に読んでいたライトノベルを進めた。
「それってこの前読んでたやつ?」
馬鹿にされる覚悟で出したが、意外にそんなことの全く無い、素っ気ない反応をされた。
「1巻なら図書館にあるはずだから。」
「へぇ。じゃあ今日の帰り図書館行ってくるね。」
「あ、図書館は18時に閉まるから借りるならその前にね。」
「大丈夫大丈夫!」
横峯は今まで見たことの無いような柔らかな笑顔をしていた。茶化そうとしている感じはしなかった。
そして翌日。昨日のことが謎に気になってしまった僕は横峯より先に土手で座っていた。横峯が来たのは10分と経たない頃だった。
「待ってるだなんて珍しいねぇ。」
感心している風な横峯。いつも通りのことなのに顔を合わせるのが何故か怖かった。居ても立っても居られず横峯が座ったのを見計らって昨日教えたライトノベルのことを聞いてみようとしたが、横峯の方が口を開くのが早かった。
「昨日教えてくれたの読んだよ! 思ってたより面白くて一晩で読み切っちゃった。」
予想外の返答。だが、1日であれを読み切るのは何か怪しい。適当なことを言っている可能性だってある。だから試しにこのシーンはどうだったかとか、誰が1番好きなキャラだとか聞いてみることにした。
「好きなキャラは?」
「早瀬ちゃんかなぁ。普段明るく取り繕ってても本当は心の中に闇があるっていうギャップがいいってゆーかぁ、それに……」
想定とは裏腹に、横峯は驚くぐらいに長く語り続けた。どうやら本当に読み切っているらしい。その時、僕の心の中で言葉に出来ない何かが弾けた。僕は恥ずかしいぐらい食い気味になってそのまま話に乗り出した。
「あそこのシーンどうだった?」
「あれはね……」
「てかここの台詞でさ……」
「それそれ!」
なぜそこまで嫌いな相手との話に乗れるのか。不思議だ。けど、共通の話題で、共通の好みの話が出来る人がこんな所にいたことが嬉しいのは事実だ。多分今まで横峯と話していた中で1番楽しい時間なんじゃないか。気づくといつの間にか陽が落ちていた。
それ以来、僕と横峯の小説談義はすっかり日課になった。こんな習慣が出来てから僕の退屈な日常は大きく変わった。僕が本を勧めて横峯が読む。そして、しばらくしてから感想を互いに喋り合う。土手での会話はいつの間にか僕にとって最悪から最高に変化していっている。そんな気さえしていた。
「ここで伏線を回収すんのがさぁ……」
「そうなんだよね。」
「てかここどうなっちゃうの?」
「それは次巻のお楽しみにって感じで。」
「えー!」
まるで自分が自分じゃなくなったみたいだ。好きなことを話し合える友達が出来るというのがこんなに心弾むことだなんて。公園でサッカーしてはしゃぐ子供たちの気持ちがやっと分かった気がする。この時間がずっと続いてほしいと思った。
そんな日が数か月近く続いた。続くにつれ、次第に横峯の普段のことが気になり始めてきた。そういえば、元から読書は好きな方とは言ってたけど普段はどんな小説を読んでいるんだろう。携帯小説、ジュブナイル小説、はたまたミーハーな話題性重視の小説なのか。思い切って聞いてみよう。
それである日。「あのさ……」と呼びかけてみた。その時。その瞬間だった。僕の視野が広がったせいか目の前に見たくなかった物が、一瞬見えた。横峯の左腕に巻かれた赤い染みのついた包帯といくつかの痣。僕は衝撃のあまりさっきまで話そうとしていたことを忘れてしまった。
「横峯、それ……」
横峯から表情がふっと消えた。目で見て分かるぐらいだった。
何者かになりたかった。小学生の頃の将来の夢は『アイドル』だった。その辺にいる雑草なんかじゃなく、どこにもいなくて他の何よりも尊ばれる一輪の花になりたかった。そういう人。それが私だった。
そのはずだったのに。そのはずだったのに現実での私は雑草以下。小学生の頃に初めて虐められた時に自覚した。何が原因だったのかは覚えていない。そもそも原因なんて無いのかもしれない。最初は些細な無視からだった。次第にエスカレートしていき、上履きを隠される、陰口をわざと聞こえるように言われる、傘を壊されるなんてことは日常茶飯事となった。このことを親にも先生にも言い出せないぐらい私は小心者だった。それがより一層と私を追い詰めた。
けどきっと、そんな幼稚な遊びは高校に入ったら皆辞めてく。そんな淡い幻想を抱いていた私は高校に入学するまで耐えることにした。けど私が期待するほど現実は変わってくれなかった。そんなこんなで私は人と関わるという行為に嫌気がさして、私は孤立した。望んでなんかいないのに。いつの間にか自分を傷つけ可哀想だと哀れむのが趣味になっていた。
そんな私を多少癒してくれることがあった。雑草になってしまった私を花に変えてくれること、高校に入る直前。SNSで見かけたあるコスプレの写真。普段の顔写真からは信じられないような変身ぶりに、これだと思った。それが始自己嫌悪に陥っていた私にとって救いのようなものに見えた。
でも別にアニメキャラとかのコスプレをしたい訳じゃない。少しでも今の自分を捨てたいだけ。だから自分が思いつく限り、自分とかけ離れた存在の見た目を、家の中でだけでも真似することにしてみた。髪は学校で染める行為が禁止で染める勇気も無かったからクオリティ高めのウィッグで代用、今までやってみたことなんてなかった化粧もネットで色々調べて挑戦、制服はそのまま自分のを利用した
完全に前とは異なる姿になった自分を鏡で見るのは心地良かった。けど、何か足りない。そう思って、それでこの格好で散歩することにしてみた。自宅周辺を何するわけでもなくブラブラ歩く。時々スターバックスやコンビニ、マクドナルドなんかに立ち寄ったりもするけど、基本は歩くだけ。それで何かが起こるわけではない。でも、不思議とすがすがしさと優越感に満たされる。多分先生に見つかったら大目玉というレベルじゃないだろう。でもそのスリル感も相まって心地よさを増していた。
彼と出会ったのはそんな時だった。散歩中、毎回彼が座って本を読んでいる姿を見た。本を見つめるその瞳は見たことも無いぐらい何にも汚されていない、純朴な瞳だった。こんなにも綺麗な目を持つ人を私は初めて見た。そんな彼がある時、目の前でハンカチを落とした。何を思ったのか私は彼にハンカチを渡すだけじゃなく少しからかってやろうという気分になった。
そんなこと私は全く好きじゃない。上から人を嘲るなんてむしろ嫌い。でもあの時は不思議とそうしたくなった。もしかすると心のどこかで見下せる存在が欲しかったのかもしれない。被害者ぶりながらも本当は加害者になりたかったのかもしれない。正直申し訳ないと思う。そんな邪な感情から始まった二人の奇妙な関係性。でも、不思議とそれは長く続いた。話すことはあまり得意じゃないから何を話しておくか授業の最中とかに考えていた。そんな必要全くなかったけども。
私も楽しかったし、初めは乗り気じゃなかった彼も段々と笑顔を見せてくれるようになった。それが私にとって何よりも嬉しかった。そんな日常がずっと続いて欲しいと思った。あの日までは。あの日、私は本当の自分は消せないんだと悲しいまでに気づいた。
横峯が僕の前に姿を見せなくなってから一週間が経とうとしていた。相変わらず僕は学校帰りにいつもの土手に座り込んでいる。あれから横峯が来ることはなかった。なかったけど晴れてる日なら寝ころんで本を読むし、雨が降っているなら傘をさして突っ立ってる。何もないけどこのルーティンが癖になってしまっていてやめられない。それに、横峯とまた会えた時に話す本のネタが無いと会話に困ってしまうから。あんなに嫌いだったのに不思議と待ってしまっている。立場が変わったようだ。
あの時、僕が余計なことに気づいてしまったからだろうか。他人の内に土足で踏み込んではいけないという事は僕が一番良く知っていたはずなのに。相手の事情もよく知らず突っかかるなんて僕が一番嫌いなことだったのに。僕もすっかり汚れきってしまったんだな、と軽く絶望する。
でも、あの傷が僕の想像通りの物なのだったら。彼女は僕から遠い存在のようで実は近い存在だったのかもしれない。ということは、踏み込まなければ横峯のことなんか知りようもなかったんじゃないか。
小雨が降りしきる今日、僕は土手近くの雨宿りに丁度良さそうな高架下にいた。今日も来ないという謎の確信があった。というより来てほしくないといったところか。久しぶりに会ったらなんて言えばいいのか分からない。
とか思っていたら、近くから聞き覚えのある声がした。天気が悪く人がいないからか、はっきりと耳に入り込んできた。向くとそこにいたのは……セーラー服を着たショートヘアの地味な眼鏡女だった。傘をさしておらず、ずぶ濡れだ。
「あの、桜井、くん……?」
「そうで……そうだけど」
彼女が誰なのか、僕じゃなければ気づけないだろう。それだけ雰囲気が変わっていた。
「横峯さん、どうしたのその恰好。ずぶ濡れだし……」
「あはは、びっくりしたでしょ?」
困惑している僕を無視して横峯は強張った笑顔を見せつけてくる。
「だからどうしたのって。」
「いやなんでもないよ急いできたから!」
自嘲気味な横峯に僕は詰め寄る。
「そうじゃなくてなんで最近来なかったのって。この前見たんだよ。眼鏡の横峯が鞄持ちさせられてるとこ。」
「え」
横峯は露骨に目を逸らした。静かに震えながら。そんなに強がりたいのか。
「……今まで隠しててごめん。」
「なんで謝るの。」
「だって……。」
横峯が周囲に嘲笑われているのを見たあの時。「おい早くしろよ!」「写真ばら撒かれてもいいのー?」とからかわれているあの姿を見た時。僕の胸が苦しく締めつけられた。今でも鮮明に思い出せる。僕は横峯の辛さを、人生を、分かったつもりで何も分かっていなかった。それなのに偏見だけで邪険に扱ったり自分の興味のある話になったら勝手に乗り気になったり。僕はなんて最低なんだ。
そんな最低な僕からなんて声を掛けたらいいんだろう。沈黙が心苦しいと思った。今言うべきことはなんだろう。分からない。そもそも最低な僕に言えることなんかあるのか。それも分からない。けど、また会えたら、言いたかったことがある。僕は何とかたどたどしく胸の内で言葉を紡ぎ、決意を固め、そして口にした。
「なんだっていいよ。ほら新刊。読んだら感想ね。」
呆れたような気だるげなような。いつものような会話の出だし。そんなに意識はしていない。そんな空気じゃないとは思っていた。だから、こんな関係が今日終わってもいいって、そんな覚悟で言った。
けれど横峯は優しかった。涙を拭いながら「はいはい」と無理やりすぎる笑顔を向けてくれた。雨天とは不釣り合いなぐらい眩しい笑顔は僕にとっては何より救いだった。
僕たちはまだ何も知らない。互いに知らないことだらけ。そんなところからまた始めていこう。雨は降り続くけど、そんなの僕たちにとっては関係の無いことだった。
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