「挨拶」

5/5

56人が本棚に入れています
本棚に追加
/76ページ
パウダールームでバレッタを見ると、金具が折れていた。 仕方がないので、このまま下ろしておくことにして、髪の毛についた変なクセをブラシで直していると、鏡の中に自分がもうひとり映った。 違う。 隣でメイクを直している女性が映っているだけだった。 髪の長さも同じくらい。 ブルーのニットを着たその女性は、わたしに気がついていないようで、リップを塗り直すとすぐに出て行った。 なぜだかわからないけれど、胸がざわざわとして、後を追うようにパウダールームを出た。 でも人混みに紛れてしまって、もう女性の姿は見当たらなかった。 急いで鴨白さんのところに戻りかけて、さっき見た女性が鴨白さんの前に立っているのが見えた。 何か話をしているようだったけれど、周りの雑音で聞こえない。 女性は後ろ姿だったけれど、鴨白さんはこちら側を向いていたので、その顔が見えた。 もし、その表情を何かの言葉で表さないといけないとしたら、泣いてる。 それも苦痛を伴いながら。 どうしたらいいのかわからないまま、近くまで行きかけて、2人の話が聞こえて足を止めた。 「許したわけじゃないから」 「わかってる……響子。ごめん」 響子…… 大学時代、鴨白さんを傷つけた恋人。 でも、鴨白さんの方が彼女に謝ってる? 鴨白さんに気づかれる前に、その場を離れ、しばらくしてからゆっくりと、もう一度戻った。 「ごめんなさい、人が多くて」 「用を思い出した。これ、渡しておく」 さっき買ったケーキの手提げ袋を渡された。 「急ぐから、ここで」 鴨白さんは、顔を合わせようともせず、わたしに背を向けた。
/76ページ

最初のコメントを投稿しよう!

56人が本棚に入れています
本棚に追加