1 ムーンストラック

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1 ムーンストラック

1-1  慶士は関東梅雨あけの日差しとともに、東京駅にいた。  彼は、大きなスーツケースを2つ引っ張っていた。片方は自分の荷物。もう片方には頼まれたアメリカ土産が詰まっている。  二年ぶりの東京は、何もかもが新鮮に見えた。  それは、慶士がこれからしばらく日本に定住するという意識によるところが大きい。  先導する親の姿はない。たった一人だ。  慶士は日本人の両親のもと、シアトルで生まれ育った。現在は大学入学前のギャップイヤーと呼ばれる期間であり、慶士が留学先に選んだのは日本だ。  自分のルーツがあるこの国だが、数年に1度、2週間の滞在をするだけ。親戚づきあいは嫌じゃないが、どこか座りの悪い思いをすることもあって、どちらかといえば長期旅行の感覚だった。  慶士はアメリカで就職するつもりだが、度々疑問を感じることがあった。  このまま決めてしまっていいのだろうか。  彼にとっての人生は、自分で選んだというよりは受け取ったもの。社会の流れにそって、与えられたものの中から比較的マシなものを選択する。  その状態で不自由無い暮らしが出来ているのだから幸運なことだ。だがいつも、何かが欠けているような気がしてならなかった。  日本ではホストファミリーの世話になりつつ、半年間はバイトをしながら文化を学び、翌春から大学に通う予定だ。  9月入学も可能だったが、交流目的であるなら人間関係が構築される前の4月が良いと聞いたのである。    到着した駅は、高架上がホームだった。  平日昼過ぎの中途半端な時間のためか、歩く人々はのんびりしている。  慶士は電車からおりると、体を包むような湿気に驚いて、そこに日本の夏を感じた。慣れるまで少しかかりそうだ。  真夏にも何度か長期滞在したことはある。  日本に住みたくない理由があるとしたら、一番はおそらく夏の湿気だろう。サウナがついてまわっているような感じだ。  シアトルでは、この時期に湿気で困るなんてことまず無い。近年は夏場に30度を超える日も増えてきたが、それでも、市街地ならば湿度は低くカラッとしていることが常なのだ。  腰高の大きなスーツケースを引いてホームを歩く。エレベーター前で鉢合わせたベビーカーの女性に先を譲るが、大荷物を見て譲り返された。  駅のエレベーターは古いため狭く、二人では乗れそうにない。慶士はもう一度譲った。女性は、感じの良い微笑みと会釈を残して乗り込んだ。  慶士はほっと息を吐き出しながら、エレベーターが2Fへ戻ってくるのを待つ。  自意識過剰ではあるが、自分の日本語や、気遣いの仕草が変に思われていないか気になる。両親はお互い日本語で話すし、その中で育ったせいか日本語がネイティブレベルだと評価はされているが……、しかし、慶士の両親はあまり標準的な生き方をしていない。  それに加え他の言語も喋るので、両親やその友人のコミュニティからの言葉を、真に受けるわけにはいかなかった。  ホストファミリーとは、駅の改札外で15時に待ち合わせていた。まだ40分も余裕がある。交通機関の到着時刻の正確さを信じなかった結果だ。  ホームに待合室はなかった。駅前に涼めるようなカフェがあればいいが……。冷えたレモネードを飲みたい。ミントの葉が浮かんでいるとなお良い。  そんなことを考えながらエレベーターに乗り込み、閉ボタンを押した。わずかな浮遊感とともに地上に到着し扉がひらき、慶士は愕然とする。  エレベーターから出たすぐのところで、喧嘩が始まっていた。男二人が胸ぐらをつかみあい、今にも殴り合いに発展しそうなほどだ。怒気を含んだ言い合いをしている。二人は若く、体格からしてもおそらく慶士と同年代か年下に見える。  慶士は、日本でこんなに物理的な喧嘩を見たことはなかった。取っ組み合いは終わらない。  彼らは同じくらいの体格だったが、片方に強さと勢いがあり優勢で、やがて二人はもつれるようにその場に倒れ込む。先に倒れた男に、もうひとりが馬乗りになって胸ぐらを掴む。  周囲には大人の男や警備員は見当たらない。  携帯ゲーム機を持った小学生ぐらいの男子が3人。それに、先程のベビーカーの女性。  騒ぎは改札手前で起こっていて、通路を塞いでいるので、人々は外へ出ていけなかった。  慶士は重いスーツケースを手放し、彼らに近寄った。穏やかに話しかける。 「君たち、少し落ち着きなよ。警察呼ばれるよ」  喧嘩中の二人は互いを退けたり、拘束したりするのに熱中していて聞き入れようとしない。  仕方がないので、優勢なほうの男を背後から羽交い締めにして引き離す。  その際ちらと見えたが、組み敷かれていたほうの男は唇が切れたのか、口元に赤い血が伝っていた。血が苦手な慶士はすぐに目を逸らし、羽交い締めにした男を注視する。もがく彼に頭突きされそうになったが、すんでのところで躱した。 「てめー誰だよ! 離せ!」  信じられないほど大きな声を至近距離で出されて驚き、思わず眉をしかめる。 「何があったの?」 「はあ?」 「一度気持ちを落ち着けて、それからーー」  その時、背後から太い声が聴こえ、顔をあげると男性駅員が二人すぐ横まで来ていた。うち一人は顔に貫禄がある。慶士は少しホッとした。  喧嘩していた当人たちは、周りに人が増えたことで我に返ったらしい。不服そうな顔のまま、互いに距離を置き立ち上がる。  駅員は丁寧ながらも、はっきりした強い口調だった。ふたりを通用口から奥へと誘導する。奥はどんな場所か知らないが、おそらくバックヤード、駅員の詰所のようなものがあるのだろう。  慶士は、通りすがりだと駅員に説明したが、可能なら状況把握に協力してほしいと頼まれた。少し迷ったが了承する。  エレベーターの前に置きっぱなしのスーツケースたちを引っ張って、鼠色のドアの向こうへ入った。  聞くところによれば、問題の彼らは、あの場で喧嘩を始めたわけではない。駅外の広場で言い合いを始め、1人が足早に改札内に入ったところ、もう1人もそれを追いかけて入り、そこから取っ組み合いが始まったらしい。
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