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2-4
「理央、おかえり」
夕方理央が帰宅すると、リビングから出てきて手を広げ、待ち構えている男がいる。理央は少し躊躇って、でも自分が提案したことだしな、と思い直した。スニーカーをぬぐと正面から彼と抱き合った。
胸の鼓動と、体温と、デオドランドの香り。
本当なら理央が優位にたつための提案だった。
ホームシックで寂しがっている慶士を抱きしめて『恩を売る』。これはのちのち理央にとって有利に働くはずだった。
しかし蓋を開いてみると、触れ合いは理央にとっても心地良いものだった。
最初は挨拶程度の短いものだったが、時間があればもう少し長く、もっと長く……そんなことを繰り返しているうちに、恋人のような抱擁になっていた。
彼の肩に頭をあずけ、目を閉じる。不思議と安堵した。呼吸もゆっくりになる。
慶士は異性愛者だと言ったが、だったらこれはどういう気持ちで触れ合っているのだろう。
兄弟や、家族のような気持ちでいるのか。
だとしても、アメリカではこんなに長く抱き合うものだろうか?
ドラマや映画を思い出してみる。
家族間でこんなに抱き合うのは、事件事故や、病気、災害など、精神的に大きなショックを受けたときぐらいだろう。それが演出として過剰に描かれているのだとしても、こんなには長くない。
理由はなんでもいいけれど、できるだけこの習慣が長く続いてほしかった。近年慢性的にに感じていた苛立ちが、緩和されたような気がしたからだ。
理央は、正直なところ同性に心惹かれることもあった。ただ、決定的な確信はないまま生きてきた。
そもそも同じ相手と親密に交流し続けることに息苦しさを感じている。
気が向いたときだけ気軽な相手と関係を結ぶほうが楽だ。
それを恋愛と呼ぶのかわからない。
「理央の言う通りだった」
「……何」
「最近すごく調子いいよ。ホームシックは否定したいけど環境が大きく変わったのは確かだし、身体に負荷が掛かってたんだと思う」
「うん……」
抱き合いながら、理央はまれに想像することがあった。慶士の身体は立派で、触れていると魅力を感じる。
ーーーーキスしてみたい。
頭にその考えがよぎったとき、慶士が言った。
「理央……、ずっとこれに付き合ってくれるけど、いやじゃない?」
「でっかいぬいぐるみになった気分」
慶士は軽く笑った。何も言わないまま、理央の背を撫でた。
こういう、慶士の反応が好きだった。照れ隠しの冗談を言ったつもりなのに、想像したような反応がないときがある。それは単に環境で培った受け止め方の違いかもしれない。だが理央は、こういう事がある度に慶士に興味がわく。
理央の肌は、慶士の指先をしっかりと感じている。
首や後頭部など、他の部分も撫でてほしいと思っていたが、同じ家で暮らしている今、切り出すにはリスクがある。
慶士は、恋愛に適した相手じゃない。
だから、どんなに親切な好青年であっても、深く関わるのはやめておこうと思っている。
日本にいるのは期限付きで、やがてアメリカに帰るんだから。
慶士だって来年大学が始まったら、忙しくて理央に構っている暇はなくなるだろう。
バイト先の話を聴くかぎり、慶士はとても交流上手だから、どこでも引っ張りだこになるはずだ。
日本語の読み書きに不安があるところも、きっと交流のきっかけになる。日本語のネイティブだったら、彼に教えたくなる。当たり前に知っている知識で手助けして、慶士に感謝されるなんて気分がいい。
慶士にもしいま恋人がいたら、きっとその相手とハグをして気持ちを落ち着かせていたんだろう。
キスや、それ以上の親密な行為もするのかも。
理央がやっていることは、その代替え行為なのではと思考がたどり気付いたとき、急に寒気がした。
胴の間に手を入れ、ぐいと肘で押し距離を置く。
「理央」
「おまえ、暑っつい」
そんなこと1ミリも思っていなかったが、理央はそう言い捨てて洗面所に向かった。嫌な気分だ。
洗面所で手を洗い、鏡で自分の顔を見るとふと我に返り、玄関に戻った。慶士はまだそこに立っていたので、声を掛ける。
「俺……、いま機嫌が悪い。ごめん」
「あ、ああ……。いいよ。なんで?」
「それは……」
なんでだろう。すごく寂しくて、みじめな感じがして一刻も早く部屋で一人になりたかった。口ごもっていると、慶士は明るい声で言う。
「そうだ。恭子さんたち19時には帰れるって。だから夕飯作ってる、手伝ってよ」
嫌だったが、冷たく接した罪悪感も相まって、手伝う事にした。
おそらく慶士には、「機嫌が悪い」ことは天気みたいな認識で、だだ気分転換させれば済む話と思ってるようだ。
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