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駅の事務室には、機能的なスチールの机が一つ。周囲にはたくさんのファイルボックスが置かれ、その脇にも事務用の戸棚があった。壁には大きなボード。何らかの表が張り出されている。付箋やメモが上から貼り付けてあり雑然とした印象だ。簡易な掃除用具も隅に置いてある。
部屋の中央にパイプ椅子が二つ、できる限り距離をあけて配置された。当事者の二人はそこに座り、彼らはずっと不遜な態度だった。
促されて謝罪の言葉を口にはするが、納得していないのは表情を見れば明らかだ。二人は中学の同級生らしい。
劣勢で唇が切れていたほうは、押田。専門学生。今はかなり落ち着いている。首まわりが太く、態度も鷹揚に見える。
優勢だったほうは、下永。大学生。
彼はまだ怒りが収まらないようで、ため息をついたり、そわそわと手を動かしたり、事務椅子に座り直したりして、どうにか気を紛らわせているようだった。
隣の押田と比較すると、いくらか細い。いや、手足が長いのだろうか。羽交い締めにした時、そんなに軽く感じなかった。しっかりした眉に、かなり鋭い目つきだった。人によってはミステリアスともとれる顔つきだろう。さんざん睨まれた慶士は、やや苦々しい思いがする。
押田は傷害の被害届までは出さないという。それどころか、「こんなのガキの喧嘩だから」と冷笑していた。下永が苛立った様子で押田を睨んだので、場の雰囲気はピリつく一方だった。
彼らは、注意のすえに開放されることとなった。
これ以上のトラブルを避けるためか、押田が先に解放され、そのあと少し時間を置いてから、慶士と下永も外へ。慶士は、駅員から礼を言われる。
一歩外に出ると、照りつける日差しが眩しい。
慶士は、何も言わず去るのも気まずい感じがしたので、横に軽く声をかけた。
「じゃあ、気をつけて」
「そっちも気をつけて。偽善者」
淡々と無表情で言った彼。慶士は唖然として、反応が遅れた。
「ちょっとおい、そんな言い方」
下永は慶士の呼びかけを無視して歩き始める。思わずその肩を掴んだ。
「あのまま殴り合いになって、警察を呼ばれるよりは良かっただろ?」
「警察、呼ばれてもよかった」
「What??」
下永は目を見開く。訝しげに慶士を見る。
変な間があり、慶士は自分が英語で返答したことに気付いた。
「……あー、いや」
「旅行者? 日本人っぽく見えるけど」
「その」
「だったら余計、首突っ込んでくるな」
「ちょっと待って。もし俺が何が、意味を聞き違えてることあるならーーーー」
「あんたには死ぬほどムカついてるよ! せっかくあいつをぶちのめす機会だったのに、邪魔された!」
早足で去る彼を、慶士は慌てて追いかけようとした。が、高架下には食料品店があり、そこの駐輪場ーーー自転車が大量に並び、スーツケースがそのタイヤにひっかかる。
しまった、と思ったときには自転車がドミノのように倒れていった。
ものすごい音がする。
慶士は驚きながらもスーツケースを歩道の端によせ、ひとまず倒れた自転車を直すことにした。いくつかの自転車を立て直したとき、反対側から下永が自転車を直していると気付き、目を疑う。
二人の距離は縮んでいき、あいだにあと2つ、となったところで慶士は声をかけようとした。
だが下永は急に踵を返し、今度こそ去っていった。
***
慶士はスマホの振動に気づく。ホストファミリーからの電話だった。約束の時間をとっくに過ぎている。
スーツケースを引いて高架下を通り抜け反対側の通りにでた。彼らは、慶士の荷物のためにワゴンタイプのタクシーを用意してくれている。
夫婦とそれぞれ軽くハグをする。駅前のロータリーが小さいこともあり、すぐに荷物を積んで発進した。
「暑かったでしょう! 昨日から真夏日になっちゃったの。先週はまだマシだったんだけどね」
隣に座る親切そうな笑顔の彼女は恭子。少し困った顔をしながらも夏を楽しむ気概が見えた。続いて助手席からの声。
「時差ボケはどう? 眠い? 僕も若い頃カナダは行ったんだよ。バンクーバーから、セイントマークスっていう霧が幻想的な山に登ったんだ。わかるかな。最近はもう長時間の飛行機は体がついていかないよ。2、3日使いものにならないんだから」
助手席で一人笑う彼は、家の世帯主である恭司。こちらも、話し方からして社交的なのがわかる。
この夫婦とは数年前の文化交流パーティーで一度と、先月ズームで少し通話しただけだったが、ずいぶん話しやすい。
そうでもないと積極的に留学生受け入れなんてしないか、と思いながら慶士は、印象がよくなるように務める。1年半も世話になるのだから、とにかく早い段階で信頼を勝ち取りたい。打ち解けたい。
「俺、実はさっきまで眠くてぼんやりしてたけど、駅で喧嘩を見たんです。それのせいで時差ボケどころじゃなくなっちゃって」
「うそ、喧嘩?」
隣の恭子が言う。
「そうなんです。男同士で、なにか揉めてたみたいで……、日本でああいう喧嘩って初めて見ました」
「殴り合いってこと?」
「その直前って感じです」
「そんなの私だって見たことないな」
「僕もないねぇ。電車での口論はたまに見るけど、そのくらいかな」
やはり、今日遭遇した出来事は相当なレアケースだったのだと実感する。
10分もかからず到着した彼らの家は、2階とロフト部のある一軒家で、新しくはないがそれほどの古さも感じさせない。補修しながら長く住まれている家、という風貌だった。住宅地は密集しているという程でもなく、家によっては庭も見える。そばには小さな公園もあった。
「お邪魔します」
「どうぞ。スーツケースは一旦そこに置いておいて。お手洗いはこの左ね。ちょっとお茶してから部屋に案内するから」
玄関すぐのところに新聞紙が敷いてあり、その上にスーツケースを置いた。靴を脱ぐ。
わずかな廊下を進む途中、壁に絵が飾ってあると気づいた。それはノートぐらいのサイズで、鉛筆で描いた街の絵だ。雨の日の飲食店の軒先と、その前の小道を描いている。
思わず目を奪われた。路面が濡れて、そこに光があたっているなんて表現は、そもそも単色で表すには難しい。
「いい絵ですね」
慶士が先に行った恭子に声をかけると、彼女は戻ってきた。
「鉛筆の絵?」
「はい」
「うちの子が描いたの!」
「えっ」
「理央のほう」
「驚きました。ほんと、すごく上手いから」
「いまはもう全然描いてなくって。これだって、私が頼んで飾らせてもらってるの」
「そうなんですか、なんで……」
「飽きたなんて言ってたかな。私はまた描いてほしいけど、嫌だっていうものを無理に続けさせても仕方ないしね」
「そうですか……。今日って、理央くんは」
恭子は、小さな溜息をもらした。
「慶士くんが来るの今日からだよって話してあったのに、どこか出かけちゃった。夜まで帰ってこないかな。あの子ってこういうのに全然協力する気ないのよ! ごめんね、せっかくだし上手くやれたらいいなって私も思ってたんだけど」
「そうですか……」
「あの子が家で素っ気なくても、気にしないで。無理に仲良くしないでいい。いまは何にでも悪態ついてるし、ほんと反抗期なの。夕飯もおやつも部屋に持って行って食べちゃうし、ああ言えばこういうし、私は『うざ妖怪ババア』だし」
「おい、理央がそんなこと言ったの? それはよくないな」
タクシーの支払いを済ませ、遅れて玄関に入ってきた恭司が言う。
「も〜、そうでしょ? このあいだなんてーー」
二人は理央のことについて話していたが、その言葉は頭に入ってこず、慶士は絵を見つめたままぼんやりしている。なんだか複雑な気持ちだ。
この家には二人の息子がいて、一人は話題に上がった理央。そのしたの次男は離れた土地の高校に入学し、寮生活をしている。
その空いた部屋を貸し出しているというわけだ。
実は、この家の同い年の息子……その彼が相当なオタクなのだと聞いたとき嬉しかった。そういう友達が欲しかったからだ。
シアトルでも、アニメやゲームのことを話し一緒に楽しめる友達はいた。しかし、積極的に何かを作ったり、活動をしている人を見つけるのは難しかった。
慶士と同じくらいの熱意を相手に求めれば、どうしても物足りなさを感じてしまう。尊敬できるくらいの技術を持っている同年代とは接する機会がなかった。だからこそ、日本でなら出会えるのではと期待していた。
しかし出会えても、興味を失ってしまっているのではどうしようもない。
「あ、これは慶士くん宛のハガキ」
恭司から渡されたポストカード。オリンピック国立公園の写真だった。メモには『郵便の到着具合を確かめているから、届いたらメールを』とある。今日到着しているということは、だいぶ前に差し出されたものだろう。
「親からです」
「僕宛にも同じハガキだ。こっちでもなにか絵葉書を用意しようか? ああ、去年富士に行ったときの写真があるからそれをプリントしよう」
そして、慶士はハガキを眺めながらふと気づく。
『下永恭司 様方』の宛名。
駅で出会ったあの男も名字が『シモナガ』だった。おそらく、下永というのは日本でそう多い名字ではないはずだ。
しかし、だからといってそんな映画みたいな偶然があるか、と予感を打ち消す。反抗期のイメージが、今日出会った人物の印象と結びついてしまっただけだろう。
リビングに入ってすぐのところに大きな戸棚があり、目の高さの位置には木彫りの置物が複数飾られていた。そのすみに写真立てがある。
家族写真だ。喧嘩をしていた『下永』と非常によく似た男が、いくらか幼い顔つきで写っていた。
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