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1-3
シャワーを浴びたあと、夕食時刻には慶士の歓迎会が開かれた。
恭司の姪とそのブラジル人の夫。下永夫婦と繋いでくれた関係者と子供、その友達。恭子の旅行代理店時代の同僚。
下永夫婦は二人で会社をやっている。もとは恭子個人で始めた事業を、恭司が手伝う形になり、事業が軌道に乗ったタイミングで管理上の問題から法人化したらしい。現在はアテンドだけでなく別の事業もやっているそうだ。
客人はみな飲み物か出来合いの食品を持って現れ、総勢10名ほどになった。
慶士は時差ボケからの眠気がきて、後半はソファに座り朦朧ととしていた。途中コーヒーをもらってぎりぎりまで眠気に耐え、明日からは日本の時刻に合わせる計画だ。
ある程度人数がいると、対人関係での人柄がわかってくる。
恭子は誰に対してもよく喋っていた。ノリの良い音楽でもかかれば踊りだしそうだ。恭司も会話がつきなかった。どう見ても、おしゃべり好きな夫婦だ。
恭子は会の最後に、冷蔵庫に冷やしてあった巨大なバットを取り出し、レアチーズケーキを客人にふるまう。慶士ももらった。
ほのかにレモン味で、ひんやりして美味しい。これが一番の得意料理なの、と恭子は自慢げに言う。謙遜などなく、あまりにも堂々としていたので慶士は思わずつられて笑った。
この家の、食事に関してのルール。今春までは、朝食を一緒に食べて情報交換するという決まり事があったらしいが、最近もそれはうやむやらしい。
彼女の話しぶりによれば、おそらくは理央が大学生になり行動の把握が難しくなったことと、独り立ちするような年齢であることも配慮してこうなっているらしい。彼女自身はあまり納得していないのか、少し不満げだった。
22時にはすべての人が帰った。
慶士は気持ちばかりリビングの片付けを手伝ったあと、眠気に限界が来て部屋に戻ることにする。
あてがわれた部屋はこじんまりとしているが、エアコンもあり不自由なく快適だ。
慶士が来る前にも、2ヶ月ほど住んでいた留学生がいたらしい。そのせいかこの家の住人の部屋を借りているというより、旅先の個人経営B&Bのような雰囲気だった。住人の私物はほぼない。
夕方、簡単に荷ほどきは済んでいた。
慶士はTシャツと短パンに着替えると、電気を消して薄い掛物の中に潜り込む。綿の素材は快適だ。
ベッドから部屋を眺める。部屋隅に寄せたスーツケースは、笑ってしまうほど大きく見える。留学準備のためにスーツケースを用意する時、一つは知人から年季のはいった青緑のものを譲ってもらい、もう一つは黄色で新調した。
その2つは、シアトルの路面電車によくある色だ。日本で使うには多少派手な気がしたが盗難防止にもなる。
緊張がほぐれてきたのか眠気のせいなのか、とんでもなくだるくなってきた。それでも高揚が勝り、スマホでSNSを眺める。いくつかの時事ニュースをチェックしているうちに、意識が途切れていた。
ふいに目が覚め、いつもと違うベッドの感触に混乱し、数秒置いて日本にいるのだと思い出した。
枕元をさぐり、スマホで時間を確認すると朝8時。
日本時間に合わせる試みは成功したらしい。眠気はまだあったが、なんとか気合を入れて起き上がる。
カーテンを開けるが窓が西向きのようで、あまり日光は入ってこない。ついでに窓を開けた。緑の香りをふくんだ朝の湿気がある。
喉が渇いていたので、ベッド脇に置かれていた水の2Lペットボトルに口をつけた。
たしか、冷蔵庫に冷えた水も入っているし、蛇口に浄水器がついているから、そこからコップにくんで飲んでもいいと言われていた。部屋用に大きめの水筒かポットがほしい。今日の午後探してこようか。
夫婦からは、今日は終日仕事だから、自由にしていてと説明を受けていた。
フェイスタオルを手にして、廊下にでようとドアをあけたとき、足元、小指に激痛が走る。
思わず身を屈め、それでも耐えきれず前かがみにうずくまった。
「…〜〜う」
小指をドアの縁にぶつけた。
こんなこと何年もなかったのに。家具や間取りが少しコンパクトなためだろうか? 寝起きのせい? それにしても間抜けだ。
徐々に痛みが引いてきてふと、何かを感じで顔をあげると、階段途中から怪訝そうにこっちを見ている2つの目がある。まるで地上に顔を出したプレーリードックのようだった。
それは男で、前髪は真ん中分けで黒髪。寝癖があった。するどい目つき。
同年代に見えてかつ、この家にいるってことはおそらく『理央』だ。
「朝メシ」
声は昨日聴いたとおりだ。
慶士はよろける体をなんとか起こして、しっかりと理央を見る。
「理央だよな? 俺は慶士。聞いてるとは思うんだけど俺は留学生でしばらくここにーー」
「朝メシ。親、もう出かけたから」
彼は会話をする気がないらしく、それだけ告げて階段を降りていった。
慶士はやや戸惑ったのち、なんとか痛みを乗り越え、ゆっくりと階段を降りる。洗面所で手早く洗面を済ませた、リビングダイニングに入った。
食卓には2人ぶんの食事が用意されている。先程まで他の二人がいた形跡として、左手の流し手前のカウンターに、使用済みの食器が置いてあった。
食卓には、こんがり焼けたトーストと、スクランブルエッグ、サラダまであった。
慶士は朝はシリアルでも充分だったが、その気遣いが心にしみた。昨日の残り物らしきピザも一切れ添えてあった。
リビング側のテレビでは朝のニュースが流れていて、それが部屋の気詰まりな沈黙を埋めている。
壁側の椅子に座った理央は、先に食べ始めていた。目が合うと、座る椅子を示されたので、慶士も座る。理央の対面だった。慶士はフォークを手に取りながら言う。
「恭子さんと恭司さんは、いつも朝早くから仕事に行くの?」
「いま8時。今日は旅行者のアテンド」
「ああ……」
なんとなく相槌は打ったが、彼の言う意味がよくわからなかった。
『夫婦ふたりは、いつも朝早く出かけるのか』を質問したのに、少しズレた回答が返ってくる。質問の仕方がまずかっただろうか?
問い直すのも億劫に思え、慶士はスクランブルエッグを食べ始めた。牛乳を飲む。
「昨日の駅でのことは驚いたよ」
そう喋り始めても理央の反応はない。話しづらかった。
「この家に着いて、恭子さんに話を聞くうちに君が『理央』かなって気づいた。こんなことあるんだな」
理央は食べる手を止め、じっと慶士を見てくる。
彼はなんだか間合いが独特で、会話のやりとりが難しいと感じた。
ここが日本だからじゃない。おそらく、この理央が少し特別なのだと慶士は予想する。今まで日本で交流した友人知人のなかに、こんな気まずさを感じたことはない。
「とはいっても、もちろん恭子さんたちには喧嘩のこと話してないよ。ああ、駅で喧嘩を見たって話はしたけど、君だって特定できるようには話していない」
「それで恩売ったつもり?」
「おんうった?」
「……恩。あんたは、恩を、売ったつもりなのかって。俺に対して」
恩を売った、が一体なんだったのか思い出そうとしていると、彼は付け加える。
「恩着せがましい、の『恩』」
「ああ!『御恩と奉公』の goon?」
「それは知らん」
「武士のやつだろ?」
「とにかく、俺に、貸しを作った気になるなってこと」
「え? あ……そんなつもりは」
理央から結構ひどいことを言われているのだと、時間差で認識する。どうやら、彼はこの尖った態度を改めるつもりがないようだ。
慶士は不安になってくる。
昨日のパーティーの面々は国際色豊かで、英語を喋れる人がほとんどだった。その前提があるから、慶士の背景を考慮して、みなわかりやすい日本語を使ってくれたのかもしれない。またはこの理央が極端なのか。どっちかわからない。
慶士は心のなかで溜息をついた。バターが塗られたトーストを頬張りながら、テレビに視線をやった。
朝のニュースでは、局所的豪雨での災害について放送している。眺めているとなんだか落ち込んできた。
この先のバイト、ボランティアや……大学のことはともかくだ。基本的な環境はこの家にある。
理央は親を避けているふしがあるので、家族主催のイベントには混じらないつもりだろう。
だとしても、いまのように家で理央と二人きりになる瞬間はある。その度にこんなやりとりをしていたら、精神的に削られる。
理央のことは、正直ものすごく興味があった。同い年の男子というだけでも質問がたくさんあるし、どういう生活をして育ってきたのか、どういう本を読んでいるのか。知りたい事だらけだ。絵のことだって聞きたい。できれば、大学生活のことも事前に聴いておきたい。来春から通うのは同じ大学なのだ。
それなのに、交流できない。
下永夫婦は一応『ホストファミリー』だが、なにか審査があったわけでも機関を通したわけでもない。慶士はしっかりした語学力と文化知識を持っていてかつ、何度も長期滞在したことがある。何をするにも1人で可能なレベルだということが前提にあり、たまたま部屋に空きがあって知人のツテもあったから、住居面で世話になっているだけだ。基本は、手続きや生活面で困ったときに少し面倒をみてくれるという……、かなり軽めの距離感の”ホストファミリー”だった。
そもそも、下永夫婦が主導でやっていることだから、本質的には理央に関係ないことなのだとはわかっている。ただ、もし彼を味方につけることができたら、ここでの生活はかなり楽しいものになる気がしていた。
「理央、今日の予定は?」
「……大学」
「そうか。俺、大学からこの家までのあいだで、バイト先を探そうと思ってるんだ。良さそうなところないかな?」
理央は訝しげに慶士を見る。
「知らない。求人募集してる店は、店の前に張り紙はってある」
「探してみるよ。あのさ、廊下に飾っている絵すごくいいね。君が描いたって聞いた」
慶士は、理央の表情が少しでもほぐれることを期待していた。
だが、彼の表情は余計頑なになって、瞬きが不自然になり、視線に動揺が見えた。彼は不自然な呼吸を数度してから、食卓上のかじりかけのパンを見つめて、ありがとう、と言った。
声が小さすぎて、ほとんど口も動いていないように見えたから幻聴のような気さえした。
慶士は続きの会話をして事実を確かめようとしたが、理央はその流れを断ち切るように起立する。コップに残っていた牛乳を飲み干すと、部屋を出て行った。そのまま足音は二階へ登っていき、ドアが閉まる音がした。
理央はそのまま戻ってこない。慶士は自分の食事を終えたあと、食器を片付ける。理央が残したスクランブルエッグ半分とパンの残りは、少し迷ったあと、タッパーに入れて冷蔵庫にしまった。
理央はたびたび反抗的な態度をとるが、目を合わせてくれるし無視もしない。
だから、なにか事情があるような気がしたし、不思議と悪人のようには思えなかった。
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