1 ムーンストラック

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 流しを片付けたあと食卓を拭いていると、理央が座っていた椅子の上にスマホが残っていると気付いた。  出かける前には必要なはずだし、彼がここに取りに戻るだろうが、きっかけをふいにすることもない。慶士はスマホを手に取り、階段を上る。  慶士が思うに、理央は称賛を受けることについて、かなりシャイ反応をする人なのだろう。  離席はしたが、たぶん怒ってはいない気がした。  あの絵に嫌な思い出だけがあるのなら、きっと親に頼まれようが飾らせないはずだから。毎日、必ず目にするような場所だ。  それに「偽善者」なんて文句をぶつけた相手が褒めてくるんだから、どう反応するか迷いどころだ。  慶士は、その件について許したわけではない。  だからといって理央との関係を停滞させたままなのは嫌だった。日本に居られる期間は限られているのに、そんなにのんびりしていられない。  慶士は階段をのぼりきって、右奥、理央の部屋前に立つ。控えめにノックをする。 「理央…、くん。スマホ残ってたよ」  食卓ではつい呼び捨てにしてしまったと思いながら『くん』を付け足した。音沙汰はなく、しばらく待って、もう一度声をかけるが反応はない。  交流が失敗したことに少し落ち込みながら、慶士はしゃがんで、ドア脇にスマホを置く。  その瞬間、ドアが開いた。  半開きの隙間から理央が覗いている。慶士はすぐ立ち上がってスマホを手渡した。 「スマホ。椅子に置きっぱなしだったよ」 「バイト……」 「ん?」 「飲食店でもいいなら……、大学そばの商店街のカフェで、良いところある」 「あ、ああ……。そうなんだ、へえ。良いっていうのは、バイト代が高い?」 「バイト代はふつう。場所が良い」 「……通いやすいってこと?」 「通いやすくもある」  言葉の補足を待ったが、それきりだった。  やはりどうも会話しづらい。テンポも違う。  もしかすると、日本の同年代はこういう話し方のほうが主流なのかもしれない。 「ありがとう、そこも行ってみるよ」  慶士が礼を言い終わらないうちに理央はドアを閉めてしまった―――が、またすぐに開いた。 「店の名前、ひらがなで『くぬぎ』」 「く、ぬぎ? ……ってどういう意味?」  そう質問すると、彼は少し視線を揺らして『確か木の名前』と言い、またドアは閉まった。  慶士は正直に言えば、日本に降り立つまで自信があった。  日本文化を学ぶためという名目ではあったが、自分ならもう少し滞りなく交流できると思っていた。特に日本語に関しては。  理央と話していると、違いをしみじみ感じる。やっぱり、今まで日本語で接してくれた人たちは、表現に気を使って話してくれていたのか。    正午前、慶士は昼食がてら出発した。  家から目的の商店街までは電車で30分ほど。駅前にはそこそこ賑わう商店街がつらなっていた。再開発でもあったのか、道は出来立てのように整備され、昔ながらの日本家屋、またはドラえもんに出てくるような一軒家、それからガラス張りのおしゃれな新築ビルが混在している。  事前にマップで位置を把握しておいた、件のカフェに向かう。  デザイン性の高い建築物だった。けれど、理央の言った「場所がいい」という意味まではわからない。わざわざ勧めてくれたのだから、ここに来れば理解できるような利点があるはずだった。上から良い景色が見えるとか…?  まわりをうろうろしてみたが収穫はなく、諦めて目的の店舗に上がることにした。そして、階段を登り始めた時に気づく。   階段の壁は濃灰色で、そこにはファンタジーっぽい、例えばシンデレラの世界のような白抜きの街並みがプリントされているのだが、もしかして、と思う。  描かれている絵を観察しながら上まであがり、またおりた。  慶士は、身体の内側から湧き上がるような強い衝動を感じた。  道路脇にしゃがんで階段壁の写真を撮る。  それを理央に送ろうとしたが、連絡先を知らなかったため断念する。一瞬、恭子の顔が頭によぎるが、おそらく理央の許可を取ってからのほうがいいだろう。  この絵は理央が描いたものだ。  ずいぶんポップで、その筆跡すら変えてあったけれど、慶士には確信に近いものがあった。どう説明していいかわからないが、下永家に飾ってある絵と同じ何かを感じたのだ。  慶士はすごく高揚している。  この絵に価値を感じるからなのか。それとも、理央がこの場所を教えてくれたという事実に喜んでいるのか、そこはわからなかったが。ただ胸がいっぱいだった。  深呼吸をして心を落ち着けたあと、再度階段をあがって店舗に入る。  コーヒーとブルーベリーマフィンを注文し、窓際の二人がけで食べながら店内の様子を確認する。マフィンは好みの味だった。店内の様子はシンプルでおしゃれな感じ。  帰り際、レジカウンター脇にバイト募集の張り紙があるのを発見し、男性スタッフに話しかけた。昼の客が一段落したところなのか、客足は落ち着いている。  偶然話しかけたスタッフは店の店舗責任者だった。アメリカで長く暮らしていた事情なども話して、トントン拍子に話は決まった。バイトを探すときにもう少しハードルがあるかと思っていたけれど、日本国籍も持ち合わせていることは雇用側からすると大きく役立つようだ。慶士の日本語なら接客の上で全く問題がないし、もし心配ならマニュアルもあるから渡すよと言われた。初対面なのにとても好意的にされて、少し不思議だった。  シアトルにいた時は、日本の国籍ももっていることについてさほど何も感じなかったけれど、今は少しだけ、自分が日本人なのかな、と思った。
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