1 ムーンストラック

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下永夫婦は多忙だ。  朝食と、金曜の夜だけは一緒に夕食を食べる約束になっているが、それ以外の食事は各自でやることになっている。夫婦は仕事によっては地方まで出かけていき、2,3日いないこともあるようだ。  キッチンと冷蔵庫は自由に使える。レシートさえ提出すれば使用可能な月間食費予算まで用意されていた。  毎回食事を作ってもらったり、または当番制で自分が作った食事を振る舞うようなプレッシャーがあるより、ずっと気楽だ。この家は、慶士の暮らした環境よりも多くのことが、個人に任されている。  いざというときに頼れるひとのいる、一人暮らしにも近かった。門限はあるが夜10時だ。遅すぎてそれを門限というのかわからないが、この国の治安の良さが反映されているのかもしれない。それ以上に遅くなったり、どこかに泊まったりする場合は一言言ってほしいとのこと。    夕方、家の最寄駅に到着すると、ホームで理央によく似た後ろ姿を見かけ、早足で追いついて声をかけた。彼は白いTシャツに黒いズボン。灰色のリュックを背負っていた。  彼は肩を跳ね上げてすぐにイヤホンを外す。戸惑った様子で慶士を見た。一種のなにか、緊張感のようなものがそこにあり、それに慶士自身も驚いた。声をかけたくらいでこんなに驚かれるとは思っていなかった。 「ええと、もう帰るところ?」 「そうだけど」  声をかけたはいいが、この様子じゃ理央は一人で歩いていたいのかもしれない。もう少し後ろから様子を見ればよかった。エスカレーターを下って、改札を出るころ気を取り直して言った。 「理央が教えてくれたカフェにバイト決めてきた。ちょうど店長がいたよ」 「え…、もう?!」 「履歴書は次来るときでいいって。来週から」 「なにそれ……。そんなことあるのかよ。というか、もっと他に良いバイト先あるかもしれないだろ」 「雰囲気良かったから」 「まぁ…」  理央はなにか言い淀み、顔を上げる。 「英語と日本語喋れるんだから、通訳とか英語案内メインのとこ選んだほうがいい。たぶん、探せば時給も倍近いとこある」 「ああ、それも考えた。けどそういう仕事って頭が疲れるだろ? 俺、文化を学ぶために来たから、日本語だけ使うバイト先がいいし、敬語覚えたいからできれば接客業のほうがいい。そのほうが地元の人と話せるから」 「そ、そっか……なら、いいけど……」  理央はますます歯切れが悪い。彼が推薦したバイト先だというのに、報告したらこんな態度なのが、どうも変な感じだ。もしかすると、なにか意地悪のつもりだったんだろうか。彼と話していると悩むことばかりだ。  駅前は、ちょうど夕食前の時間帯とあって人も多かった。まわりが騒がしいので喋らなくても間はもつが、慶士は理央と親しくなりたい。  慶士は報告したかったことを思い出し、リュックからスマホを取り出した。 「あのさ、理央…、あ、りおうって呼んでいい? ニックネームがあるなら、そっちに合わせるよ」 「理央でいい」 「君があのカフェを薦めてくれた理由ってこれだろ? すぐわかった」  そう言いながら、昼間に撮った階段脇の壁面を見せる。 「見つけてすぐに写真送ろうと思ったけど、連絡先知らなかったから。すごいよな。これって仕事? どうやって引き受けたの?」  そう質問すると、理央はまじまじと慶士の顔を見た。 「お……俺が描いたなんて一言も言ってないだろ!」 「え、違う?」 「…………俺が描いた」 「だろ? やっぱりそうだ。すごいよ」  隣を歩く理央は居心地悪そうにしていた。それを見て、彼は称賛を受けるのが苦手だったのだと思い出したが、言ったあとではどうにも出来ない。  なにか理由をつけてでも、別々に帰宅したほうがいいだろうかと考えていると、理央が言った。 「おまえ、……絵とか、好きなの?」 「もちろん。俺、将来はゲームかアニメのスタジオに入ろうと思ってる」 「……本気で? それって、就職して仕事でやるってこと?」 「そのつもりだよ」 「へー……。どういうの描いてるの」  そんな質問を返してくれるとは思わず、慶士は驚きながらも自分のSNSを開く。格好つくのは何が考えたが、画力で彼をあっと言わせることはできない気がして諦め、最近気楽に作ったものを見せる。デフォルメされた動物キャラクターの数十秒の動画だ。 「こういう、ちょっと昔っぽいアニメが好きなんだ」 「てか、手描きじゃん!」 「うん。CGもやるけど、こういうのが1番好きで」 「かわいい」  その発言に驚いて彼を見る。理央はスマホ画面を見て微笑んでいた。まるで画面の中に、生まれたての子犬でもいるみたいに柔らかい表情だった。  理央の表情パターンの中にまさか、笑顔があるなんて思いもしなかった慶士は呆気にとられた。  下まぶたが上がって、目は弧を描くというよりは平らな一本になるが、見える角度が変わったせいなのか、普段は存在感のないまつげがよく見える。  瞳の虹彩は、真っ黒だと思いこんでいたが少し茶色がかっていた。意外にも、下まつげはしっかり生えている。その下には、なだらかな頬がある。 「なぁ、こういうのってどうやって」  理央がそう言って視線を寄越したとき、至近距離で目が合う。慶士は、彼を観察していたことに気づかれた気がして、とっさに目をそらした。なぜか後ろめたく思えた。 「使いやすいソフトがあってさ。良い素材さえ用意できたら作れるよ」 「ふーん……。作ってる人に初めて会った」 「そんなに珍しい? 東京なら、そういうアマチュアのコミュニティがごろごろあるのかと思ってた」 「………さあ? あるのかもな。俺はよく知らない」  理央ほど腕があっても、なんの関わりもないのが不思議でならなかったが、彼の尖った性格とも関係があるのかもしれない。本人が話さないものを、これ以上尋ねるのは気がひけた。 「実は、行きたい会社もいくつか決めてるんだ」 「……シアトルにいたんだろ? そんなにやりたいこと決まってるのに、なんで日本に来たんだよ」 「え?」 「アメリカで就職するなら、そっちの大学行ったほうがずっと有利だろ」 「ええと……。アメリカだとこの時期に留学したり、旅行したりするのが一般的なんだ。自分探しみたいな期間で」 「……そうなんだ」 「俺は、親戚の家に長期滞在はしても、住んだことないから。経験してみたかった。シアトルはアジア系も多くて、俺みたいな見た目はめずらしいってほどでもないけど……。それでもルーツについてはよく聞かれることの1つだし」 「………ふーん」  会話は途切れたのに、彼からの視線を感じる。慶士は当初気づかないふりをしていたが耐えきれなくなって理央を見た。 「何?」 「おまえって、さっきのアニメみたい」 「え……」 「仕草でそう見えるのかな。眉毛もすごい動くし……、表情似てる」  理央は思い出したのか、また笑っていた。それを見て慶士は、胸がくすぐられるのを感じた。
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