1 ムーンストラック

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 カフェのバイトは、日中と夜のシフトが半分ずつだ。当初は生活リズムを作るのに難儀した。  客層は半分以上が女性のグループ客で、平日夜は仕事帰りの一人客が多い。近くのホールでイベントがあると、そこから流れてくる客で満員になる。  慶士が担当するのはおもにウェイター。似たようなバイトは高校時に経験があったから、そこまで大きなつまづきもない。順調だ。いつもは観光気分で滞在している日本で働くのは、すごく不思議な感じだった。少しずつ、この国に住んでいるのだという実感も湧いてきた。それはたとえば、同じ時間帯にくる客を覚えたときや、遅番で閉店作業に関わる時。  カフェの立地が大学からそう遠くないこともあって、同大学に通う友人もできた。アメリカにいた話をすると、英語を喋ってみてくれなんて話になって少し面倒だったが、話題のきっかけにはなるので悪い気はしなかった。  バイト先で数回顔を合わせただけの、1個上の同僚女性に遊びに誘われ、その帰りに好きだと言われた。  行きたい場所に同行してあげる、という誘いだったので慶士は気軽に遊びに出かけたわけだが、気まずい結果に終わった。彼女のことは嫌いじゃなかったし可愛いとも思ったけれど、少し一方的で強引だったように思う。こういう苦い経験は、中学生のときにもあった。  8月後半のある日。午前9時。  すでに強めの日差しが照りつけるなか、理央と慶士は芝公園の東京タワー外階段を登っていた。  これは、慶士が日本で必ずやってみたかった事のひとつだ。メインデッキまでの150メートルを階段で上がれる。  こんな暑さでも観光名所だけあって、二人以外にもちらほら階段を登る人がいる。風があるぶん汗はすぐ乾く。 「昨日、バイト先の1つ上の人と出かけたら、好きだって言われて」 「おまえが……?」 「そう。まだ会って1ヶ月も経ってないのに。よくはっきり好意を伝えられるなって、驚いたよ。彼女が親切なことに変わりないけど、なんていうか……」 「ふーん……。なにかきっかけがあれば、一瞬で好きになることもあるだろ」 「理央はそっち側なのか。一目惚れをしたことある?」 「ない。それで……その人はどうしたの」 「ありがとうとは伝えたよ。すごく忙しいからごめんって言ったけど、なかなか納得してもらえなくて。だって実際、俺はそれどころじゃないし。もしバイト先で面倒が起こったら嫌だから」  そう言いながら、慶士はそれを言い訳にしていると自分でも薄々気づいている。  なんとなく億劫なのだ。  好きだとか、嫌いだとか、恋愛が。  知り合いのいない土地に来たら、気も変わるのではなんて期待もあったけれど、そうでもないらしい。 「あんたって、……チャラついて見えるけど、わりと真面目だよな」 「チャラついてる? どこが」 「その髪型とか、ピッタリしたTシャツとか、その筋肉とか」 「何? なんで」 「俺の感覚的にはそう」 「本格的なトレーニングしてるわけしゃないし、ジムにも行ってない」 「朝、なんかやってるだろ」 「太らないための健康管理だよ。それに、朝運動すると気分がいいし」 「………まぁ、なんでもいいけど。ちょっとチャラく見えるってのは譲らない。その人と関係が薄いのに告られたのもそれなんじゃない?」 「……チャラく見えるから?」 「軽いノリで付き合ってくれそうに見えるっていうか……。アメリカではどうだったのか知らないけど」  慶士はもともと痩せ型で筋肉もつかず、同年代に比べてだいぶ見劣りしたし、貧弱に見えていた。  だから、身辺のトラブルを事前に回避するためにも、体格をそれなりに見せる努力は、身だしなみと同じような感覚だったのだ。それを軽薄に見えると言われたら、頭を抱えてしまう。 「あと100段。景色いいな」  理央は喋りながらも、軽々と階段を登っていく。心肺機能なら彼のほうが強い気がしている。 「その人って、あんたが忙しくなさそうに見えたらまた誘ってくるよ。好みじゃないってはっきり言えばいいのに」 「……好みじゃないとは言い切れないよ。性格を深く知ったら好きになるかもしれない」  理央は吹き出すように笑った。どこか馬鹿にしたような声色だった。 「理央、なんだよ」 「『生れも育ちもシアトルで、英語喋れて、バイト先で偶然知り合った優しい高身長彼氏』いいじゃん」 「………何?」 「その人にナメられてんだよ。こいつは落とせそうだって」 「俺が?」 「まだ知り合いも少ないし、不慣れだろうから今がチャンスってさ」  理央の発言に唖然として、思わず固まってしまった。理央はどんどん階段を上がっていく。 「君ってほんと疑り深いっていうか、否定的っていうか……嫌な解釈をする、いつも」 「賭けたっていい。そいつ来月もう一度告ってくる、今度は泣き落としで」 「そういうのを賭けの対象にするなよ!」 「なんで俺に怒るんだよ」  確かに、自分から振った話題で理央を責めるのはおかしい、と慶士は思い直した。彼の意見を聴きたかったから話題にしたのに。  展望デッキについたが、理央の発言が気になって仕方なかった。分厚い強化ガラスの向こうに東京の街並みを見つめながら、目の端では理央の背中を追う。 「……理央はずいぶん、恋愛経験が豊富なんだな」 「豊富ってほどじゃないけど。それなりには」 「いまは恋人いないよな? 前に付き合ってたのは――」 「恋人いる」 「……いるのか。全然気づかなかった、そうなんだ」  どんな相手だろうかと、一気に想像が広がった。理央がこんな感じだから、相手は寛容な人だろうか。それとも理央と似て、溌剌とした芸術家みたいなタイプもありうる。年上とうまくいきそうだけど、年下の可能性もある。年下相手には意外と世話を焼いたりするのかも。  そんなことに想いを馳せながら、なぜか慶士はショックを受けていた。  だから花火大会も祭りも、理央は全部不参加だったのか。慶士はバイト先の仲間や、または下永夫妻主催の交流会で楽しんだ。  理央は、暑い、人混みが嫌いとぼやいていたから、その言葉通りに受け取っていた。てっきり部屋に篭っていると思っていたが、恋人と出かけていたのかも。  恭子は気づいていないようだが、不定期に帰宅が遅い事も、ただの反抗期というより恋人とデートしているんじゃ……。  理央は自由で身勝手に思えるけど、決まった相手がいる。その人だけには優しいのだろうか。 「いない」  理央は急に視線を寄越して、そう言った。 「え……」 「今は誰もいない。いたらいいのにな」  主語がないため、一瞬なんのことか分からなかった。
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