1 ムーンストラック

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1-7  9月に入って、少しずつ陽が短くなり始めた頃、慶士は体調を崩した。急に疲れが出た。  秋には地方へ旅行へ出ようと思っていたので、その資金確保のためにバイトを多く入れすぎたかもしれない。無心で働いているのが楽しくもあったので疲れていることに無自覚だった。  なんの用事もない日は一人で博物館や美術館、日帰りできる距離の観光名所を巡っていたから今日もその予定だったが、あまりのだるさにそれも諦めた。  この季節、夏はどこもエアコンが効いて快適だが、そのぶん屋外との気温差が激しく、それに消耗している気がした。風邪のひき始めかもしれない。  土曜の朝、夫婦が元気よく出かけて行くのを送り出すと、慶士はリビングのソファに座って、テレビを観ながらぼんやりしていた。  部屋で寝ていると、さらにだるくなりそうだった。できれば、もしもだか……、この体調が昼までに回復するなら、見に行きたい壺の展示がある。諦めきれない謎の執着に半ば呆れながら、慶士は祈る。  そもそもだ。  事前に調べてきてはいたが、それにしても日帰りできる距離に、こんなに観にいきたい場所があるなんて思わなかった。予定外だ。車で3時間なら諦めもつくのに。  とにかく、少し身体を休めたほうがいい。  明日は、親とズーム通話をする約束だった。日本とシアトルの時差は、サマータイムなら16時間。正午に電話したとしたら、あっちは朝8時だ。そんな場所に暮らしていることが、不思議に思える。  この家は過不足なくとても快適だった。自分のペースを保てるし、下永夫婦は慶士にとって好ましい存在だ。自分の親とはまるで違う。  テレビの音声をBGMに目を閉じてぼんやりしていると、朝食後トイレに消えた理央が、キッチンに戻って来た。いつものように冷凍庫から棒付きのアイスを取り出している気配がする。 「今日はどこも行かないんだな」  声をかけられて慶士は目をあけ、ソファに座ったまま理央を振り返った。理央はいつもなら何も言わず2階に行ってしまうのに、話しかけてくるなんて珍しい。  彼は想像通り棒付きアイスを手に持って、外装をゴミ箱に捨てているところだ。  理央とはたまに出かけたり、雑談する程度の仲ではあるが、完全に打ち解けたわけでもなかった。  慶士が壁をつくっているのか、それとも理央なのか。少し不自由な日本語のせいなのか。  わからないが、これだけ毎日顔を合わせているのに本音や真意が見えず、相手を信用しきれないというのは慶士にとって少しストレスだった。 「今日はだるいから家にいるよ。最近色々と出かけすぎっていうか……、バイトも入れすぎた」 「夏バテじゃないの」 「これって『夏バテ』? よくわからない」  なんとなく会話が途切れた。理央はアイスを食べながら、まだその場に留まっている。 「……ニュースおもしろい?」 「まあまあ。この時間のニュース番組って、すごくバラエティっぽいよな」 「くだらない事しかやってないだろ」 「……面白いよ。俺にとっては新鮮で」  慶士は溜息を飲み込み、勢いのままにそう答えた。  理央とは一日一回はこういう意見の相違がある。彼の言い方がきついせいなのかなんなのか、積み重なると負担に感じる。  最初は、なにかと文句をつけたい時期なのだろうと、恭子が言った言葉を思い出しては収めていたが、繰り返されるとうんざりする。年下ならまだしも同い年だ。 「理央は、何にでも文句を言うよな」 「……俺は自分の意見言ってるだけだ」 「だとしても、なんだか嫌な気分になる。俺はぼーっと観てただけだっていうのに、面白いかとか、くだらないとか判断されて」 「判断したっていうか。俺の意見……」 「放っておいてよ、テレビの内容くらい」 「ここ俺んちなんだけど」 「俺はそこのホストファミリーにお世話になってる留学生」 「だから?」 「それだけの関係だ。気に入らないなら俺と交流しなくていいから、わざわざ文句だけつけにくるのはやめてほしい」  理央とは再三、絵や美術についての交流を持とうとしたがことごとく拒絶され、取り付く島もなかった。理央のタイミングが合うと、東京タワーのときのように付き合ってくれるが、それも気まぐれだ。当日キャンセルされたことだってある。  慶士にアプローチしてきた女性のことを理央は「ナメてる」なんて言ってたが、それが理解できるのはきっと理央こそが慶士を「ナメてる」からなのだろう。  そう考えると納得がいく。  理央にそう思われていることについては、結構堪えた。堪えたと言うか、腹が立っている。おそらく傷ついている。不貞腐れたような気持ちだった。  初日に『偽善者』と言われたこともまだ根に持っている。  本当はもっと追求するべきだった。雑談するような仲になるまえに、きっちりさせればよかった。    同い年で、興味や関心が似ていて、すごく仲良くなれそうな予感がしてーーーーただ、それだけに過剰に期待してしまった。 「とにかく、休んでるだけだから俺のことは気にしないで」  慶士は胸にクッションを抱いて足を畳み、本格的にソファに寄りかかった。これ以上話しかけるなという意思表示で目を閉じる。  理央が去る気配がないので、苛々していた。黙っていると、理央がソファに近寄ってくる気配がする。そして、ソファが大きく揺れた。肘掛けの部分に理央が腰掛け、アイス片手に慶士を見下ろしていた。 「……なんだよ、理央」 「おまえが気に入らないとか、そういうわけじゃない」  彼は楽しくなさそうに呟いたあと、言葉に迷っているようだった。  慶士は不機嫌な顔を作って返す。 「じゃあなんなのか説明してほしい」 「今のは別に……。なんとなく話しかけたら、そうなった。文句つけたいとかじゃなくて」 「じゃあ、理央は俺に話しかけたかったってことでいい?」 「違う、なんとなく」 「だって、いつもはなんにも言わずに部屋に戻るのに」 「おまえが珍しくそこでテレビなんて観てるから。いつもと違ってたから話しかけただけ」 「わざとらしく具合悪そうに唸ってたとかじゃないんだから、無視したっていい」 「じゃあおまえだったら無視するのかよ。しないだろ、体調悪そうだったら声かけてなんか確認するだろ」 「確かに……確認するだろうね。俺はきみが言うところの『偽善者』だから。善人ぶって、心配してるよってポーズを見せるかも」  よくわからない言い合いに疲れてきて、慶士は本格的に身体を横にする。だるいのは事実だ。もう話したくない。 「……偽善者ってのは、言い過ぎた」  そう聴こえ、驚いて目を開ける。 「警察呼ばれてもよかったけど……、あのまま殴ってたら指痛めたかもしれないから、それは感謝してる。頭に血がのぼって、そこまで考えなかった」 「…………そ、そう」 「うん……」  こんなタイミングで謝罪をうけると思わなかった慶士は呆気にとられ、ただ、理央を見ていた。理央はソファの肘掛けから立ち上がる。もうアイスを食べきっていた。 「ちょっと待ってろよ」  理央はそう言い残して出ていったが、2階に向かいおそらく部屋に入ったまま、しばらく戻ってこなかった。10分ほどたって、ようやくリビングに戻ってきた。その手には黄緑色のプラカゴがある。  音からして中身はゲームのディスクかと思ったが、全部DVDのようだ。  理央はそれをソファの足元に置き、一つ手に取り、ディスクを取り出した。  テレビ下のデッキに挿入する。 「エイリアンのメイキング見たことある?」 「え……、ない。かな」 「配信のネックはメイキングがついてない事」  慶士はエイリアン自体を観たことがなかった。名作だということは知っていたが、気持ち悪い見た目だったから、どうしても手が伸びなかったのだ。けれど理央の動向を見守りたくて、口を出さなかった。理央は慶士にむかってソファの端に寄れと指示し、あいたスペースに座る。  メイキング映像を見ながら、慶士は黙っていた。CGが主流になる前の映画だからか、重くわざとらしい演出も多かったが、しかし怪獣映画のようにも見えて愉快だった。  映像が終わると理央は本編を再生し始め、最初は得意げにうんちくを喋っていたが、映画が終わって隣を見ると、ソファの背にもたれて完全に眠っていた。近かったので寝息まで聴こえた。 「理央」  彼はよくよく観察すると鼻先のあたりに愛嬌があって、それは、一体どう形容したら良いのかわからない。慶士はいままで、人の鼻に特別な興味を持ったことなんてなかった。  夏が過ぎて、彼は少し日焼けをしたような気がする。彼には、まだ聞きたいことがたくさんある。  カフェの階段に絵が設置されている経緯や、駅で喧嘩した同級生とは過去に何があったのかとか、なんで絵をやめてしまったのかとかーーーー。  思いたって、ソファに投げ出されていた彼の右手を見る。指が長く、中指の第一関節の内側が少しだけ盛り上がっている。硬く。周囲にある微かなシワの様子をみても、それが一時的なものじゃないとわかる。そのままそっと手を握って持ち上げ、小指から手首にかけての側面を観察した。ほんの少しだけ、他の部位より黒ずんでいるように見えた。
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