20になるまで

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 スマートフォンからイヤホンを外す。NirvanaのBreedが耳からぷつりと途切れた。  電車から降り、大勢の人をかき分けて改札口を出ると、数時間ぶりの外の新鮮な空気が肺に流れ込んできた。肩からずり落ちてきた青のリュックサックを直し、重いキャリーバッグを引きずりながら駅から出ると肌寒さが体を通り抜けた。  空は雲に覆われ真っ白であった。風も特にない。歩道の端には雪の小山がいくつか出来ていたが道路は凍結しておらず、剝き出しのままだった。外は人の溢れている改札口とは対照的に人も植物も巨大な建物もない。あるとすれば多少の飲食店やコンビニぐらい。今現在住んでいる場所と違って俺の地元には本当に何もない。  はっきり言って俺は地元が嫌いだ。地元にいた過去も嫌いだ。だから正直こんな場所に帰りたくはなかった。リュックサックの小ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見る。時刻は13時をとうに過ぎていた。既にバス停にいるバスを見て急いでバスに乗り込んだ。祖父が迎えに来るといっていたが俺が止めた。あの年であの乱暴な運転は危険すぎる。俺の命が持たない。  何分かバスに揺られた後、銀行近くのバス停で降りる。その裏側の道を進むと何年ぶりかの懐かしいベージュのアパートが見えてきた。キャリーバッグを持ち上げて2階へ向かったのだが、結構重くて肩に来る。自身の体力の無さをつくづく実感した。  205号室の前に立ちインターホンを押すと、しばらくして母親がドアを開けてくれた。母の顔は最後に見た時と比べてしわくちゃでブルドックのように垂れ下がっていた。「久しぶり」と交わした後、「まず入って」と言われ、俺は玄関に上がった。  室内は昔と何ら変わっておらず、埃一つ落ちていなかった。荷を下ろしてから母に招かれるがままキッチンとリビングの間にあるテーブルの椅子に座る。昔はいつもここで夕食を取っていた。  「ごめんね、こんなんしか無いけど」  「ああ、ありがと。」  座った直後、テーブルに生姜焼きとポテトサラダ、ワカメと豆腐の味噌汁、白米が順繰りに並べられた。  「いただきまーす。」  早速俺は生姜焼きを口に運んだ。噛み締めるたびに重厚な肉の味が生姜の風味と共に広がる。こうして久しぶりに母親の手料理を食べると懐かしいという思いになる。これが俗に言う“おふくろの味”という物なのだろうか。気づいたら味噌汁、米と次々に口の中に掻き込んでいた。  ソファーに座った母親がテレビを点けた。数日前に起きた、電車内での放火事件の報道が映し出されていた。  「新型ウイルスといいこれといい世の中物騒になってきたねぇ。そっちは大丈夫だったの?」  俺は米を飲み込んでから答えた。  「大丈夫じゃなかったらここにいないでしょ。」  「あははそうか。」  それから、あちらの生活はどうなのかと尋ねられた。  「ぼちぼちかな。あっちも大変だよ。俺がここを出て一人暮らし始めてさ、大学入ってさ。だけど、嫌なところから離れたと思っててもあんな風にまた違った嫌なことに遭遇しちまうんだ。どこ逃げても嫌なのは一緒なんだなってつくづく思ったよね。友達もできてバイトもまぁまぁ…… でも、さ。周りとの差をすげぇ感じてさ。俺、何のためにあそこにいんのかなってなるんだよね。みんな夢に向かって頑張ってんのに俺はさ。」  無意識の内に俯いていた。言葉が出るたび声のトーンが下がった。  「そりゃあ上には上が……」  窘めるように母が言った。俺はため息をついた。  「認められなきゃ意味がないんだよ」  言葉に少し焦りが入った。  「これからの予定は?」  「俺の?ああ、明日は父さんのとこ行って、明後日は爺さん婆さんのとこ行く。」  「そう。」  「で、その次はダイジと成人式…… 」  「髪は染めないの?」  相変わらずお節介なことを聞いてくる母。  「…… いいよ。コンタクトして行くし。」  少し苛立ち気味に返す。「パーマも?」と聞かれたがそれもぶっきらぼうにいらないと返した。その後も母はしつこくやらなければダサいだの垢抜けないだのと熱弁していたがすべて適当に受け流した。  その後は、他愛もない会話をして互いに笑いあったり好きなバラエティ番組を見たりした。夜は外で食うかという話もあったが、あまり乗り気にはなれなくて結局はそのまま1日を過ごした。  翌朝、俺は自分の喉を爪先で掻き切ろうとして目が覚めた。自分のしでかそうとしたことに軽く身震いした。狭い寝室を見渡すと隣の布団が滅茶苦茶になっていた。リビングの方から朝のニュースキャスターのわざとらしいぐらい生き生きとした声が響いてきた。スマートフォンを開くとでかでかと朝8 時と表示されていた。伸びた後、寝ぼけ眼のままリビングに向かった。  「おはよ。」  「おはよう、今日の朝はカレーライスだから。」  母の声を横にリビングから玄関前を経由して足を引きずるように洗面所へと行く。顔を洗い、顔中に自宅から持ってきた化粧水を塗りたくる。髭は剃る気になれない。その後、適当に飯を食い、身支度を整えてから家を出た。  「父さんのとこ行ってくる。」  「昼は?」  「びっくらディディーで食べる。」  俺と会話している時、母の表情はどこか冷たかった。  俺は父の住むアパートまで徒歩で行った。15分ぐらいはかかったと思う。外は快晴とまではいかないが雪は降っていない。ただ、肌を切り裂くような鋭い風が吹いていた。白いボロアパートに入り、渡り廊下の中、105号室を目で探す。部屋の前に立ちインターホンを押そうと右手の人差し指を伸ばすも、一瞬躊躇ってしまう。正直なところあまり会いたくはなかった。俺が大学での悩みを電話越しに相談する度、「レイは都会が向いてないんだよ。うちに戻ってきな。」と言って俺と会いたいという下心を見せてきていたからだ。それに、ここに来る前に通話したとき、父の声色が明らかに精神をどこかへと置き去っているようだった。  だが、事前に連絡を入れている以上入るしかない。意を決して人差し指に力を入れた。「入れー。」という気の抜けた声がして、俺はドアノブをゆるりと回しドアを開けた。玄関からキッチン、そしてリビングと続く直線の先に父親がいた。昔はデブだと俺に小馬鹿にされていた父は瘦せこけ、腰は以前の倍以上は丸くなっていた。父は俺を見るなりにこりとした。  脱いだ靴を揃え、キッチンにあるパンパンに膨れたごみ袋を過ぎてリビングに入る。思っていたより綺麗だったがよく見ると細かい塵が散乱している。窓際の物干し材には父のスカジャンとTシャツが干されていた。父はリビングの奥、大窓の手前にあぐらをしていた。   ふとリビングの隅にある水槽に入ったクサガメのカメゾーを見た。相変わらず亀の癖に冬眠はしていない。  「カメゾーは最近どうなん?」  「餌はすっかり食べなくなったぁ。」  父はカメゾーをじっと見た。俺はカメゾーから父に視線を移した。  「カメゾーが家に来てから10年は経ったよな。」  父がふと呟いた。「そうだね」と俺は答えた。しばらくの間の後、再び父が口を開いた。  「にしてもさ…… 俺、カメゾー見てるといつも思うんだよ。こんなに長い間狭い牢屋みたいなとこに閉じ込められてて幸せなのかなって。もちろん、定期的に外に出して散歩させてあげているんだけど……仮にカメゾーを逃がしたとしてもカメゾーは小さい時からここにいたわけだから外の世界なんて何も知らないし、カラスに食われるか餌をとれずに飢え死にするかのどっちかなんだよな。可哀想なやつだよ。」  「そうだなぁ。カメゾーはもうこの生活に慣れちゃってるからなぁ。」  俺は上着類を脱ぎ捨ててリビングの中央に座った。その後、話変わるけど、と母さんについて尋ねられた。俺は「家で寝転びながら屁こいてら。」と適当に返した。父は軽く笑った。  「てか母さんがさ、成人式前に染めないかとか聞いてくるんだけどさ、父さんはどう思う?」  「レイがしたくないんだったらしなくていいんじゃないの。」  「そうかな。」  「自由に生きるべきだよ。」  自由に生きるべき……その言葉は俺にとっては呪いだった。これほど無責任な言葉は無いと思う。高校時代の友人もそんなことを言っていなかったか。自分の思う自由を外に出す度、周囲から貶され、白い目で見られた。自由を求めれば求めるほど、俺は幸せから遠ざかっていっていた。自由とはなんなのか。分からない。  「父さんは最近どうなの。」  逆に俺が近況を聞いてみると、父はかつての親友とは絶縁してしまったという不幸が訪れてしまったが、仕事も順調でそのうち車が買えるかもしれないと嬉々と語っていた。ただ、健康診断の結果はあまり良いものではなかったらしい、と言っていた。だが、何を話すにしても父は壊れたように無機質な笑顔でずっと笑っていた。それからはほとんど母親の時と同じような会話をしていた。  18時頃になり、夕食の時間だということで2人でボロアパート付近にあるびっくらディディーに行った。俺はチーズハンバーグ定食を、父は普通のハンバーグ定食を頼んだ。皿が並ぶまでは部屋にいた時と同じように会話していたが、次第に父が黙りこくるようになった。表情は変わっていなかったが。俺との別れの時間が迫ってきているのが寂しいのだろうか。訝しんでいると父は意を決したように口を開いた。  「父さんさ、ずっと思ってたんだ…… もう一度母さんとレイと一緒にどこかで飯食べに行きたいって……。」  自分の顔が固まるのを即座に感じた。  「あ、ああ、そうだね。いいかもね。」  俺は笑ってこう返したが、奥底ではそれが永遠に叶わぬ夢だと確信していた。父と母は本当に仲が悪い。母は父のことを『他人』とまで言っていた。夕食を終えた後、俺はまっすぐ家へと帰ることにした。雪がしんしんと降りしきっていて、道路もスケート場のようになっていた。道路沿いの雪山も自分の半分ぐらいの大きさにまで膨れ上がっていた。別れ際に父から  「なんかあったら電話くれな?」  と言われ、俺も  「父さんも体には気をつけて!」  と返した。俺はイヤホンを付け、Green DayのBoulevard of Broken DreamsをBGMに凍えるような雪道を歩いていった。作り物のような世界の中にいる俺にとっては音楽だけが本物だった。  母さんのいるアパートに戻り、ひと段落ついたところで母から「お父さんどうだった? 洗濯とかちゃんとしてた?」と聞かれた。俺は「してたよ」とだけ答えた。その日の夜は少し胸騒ぎがして眠れなかった。 翌日、俺は口がねばねばになって気持ち悪くなるぐらい寝ていた。夢は何もみていなかった。起きた頃には13時に差し掛かりそうだった。布団から飛び起きて急いでうがいをし、母から渡すよう頼まれたタッパを入れた手提げかばんを持ち昼食を取らずに飛び出すように家を出た。  祖父母の家まではそれなりの距離があるためバスで向かった。小学校前のバス停で降り、コンビニの裏側に回って祖父母の一軒家へと向かった。ガラガラガラと入口の二重扉を開けると祖母が出迎えてくれた。  「あらレイ久しぶりじゃないの。」  「久しぶり。」  祖母に手提げかばんを渡すとリビングに入った。祖父母の家は綺麗にはしているのだろうが、いかんせん広く埃が貯まりやすいため、アレルギー性鼻炎を持つ俺にとっては地獄の環境となる。だからあまり長居はしたくない。リビングへ行くと祖父がミルクを飲みなが小学校の学級会のような国会中継を見ていた。祖父がこちらに気付いて顔を向けてきた。顔には多量のシミが世界地図のように出来上がっていた。 「おうっ、久しぶりだねが。」 「久しぶりー。」 「レイ、ご先祖様にお祈りはしてかないか?」 「いやいいよ。」 「なんでぇ、してけぇ。」 食い下がろうとする祖父に祖母が「まずいいから。」と言って引き止めた。2人とも声に 精気が宿っていなかった。 「おばあちゃんね、ご飯作っといたから、まず食べなさい。」  祖母はそういうと、米、塩豆腐、ワラビ、菊の花、そしてよく分からないいくつかの料理を出した。ありがと、と言って俺は食べ始めた。食事中は俺の近況のことや二人の健康の話のことなどを話した。二人とも俺がいない間に手術をしたり新たな病気を患ったりしていたようだった。俺も大学に通い始めてから頻繁に病院に通うようになったと話した。色々と過敏になってしまっていたのだ。  「お互い健康に生きていかないといけないね。」  祖母が言った。「そうだね。」と俺は返した。その後は、祖母お得意の健康トークが始まった。やれこれを飲んでおけば医者いらずだの、俺の母はあんなんだから駄目だの、近所の亡くなった同年代と違って私はこうだから健康だの、と長々と語っていた。それを俺は呆れながら聞いていた。どうしてだろうか。祖母は自分が全て正しいと思いたがる。誰かに何か不幸が起これば後出しじゃんけんで新聞の占い記事を挙げて知ったようなことを言い出す。そして、気をつけていないお前が悪いというオチがセットでついてくる。  祖父も祖父で口を開けば先祖へのお祈りの話か、早く孫の顔を見せて欲しい、彼女はまだ出来ないのか、という話ばかりだ。  そんな2人の話を適当に聞いたあと、日が落ちそうになってきたところで漬物を手土産に帰ることにした。祖父には送ってもらわず普通にバスで帰った。  帰ると母がちょうど誰かと電話し終えたところだった。誰と電話してたの、と聞くとケン……高校時代の俺に自由を説いたあの友人の母だと言っていた。  「ケンちゃんとは大学行ってからは連絡とってんの?」  「そんな。あいつ、大学辞めたんだって?」  「そうそう。それでね、建築会社に就いたんだって。給料もそれなりに良くって今度車かうだとかなんだとか……。」  「そう……。」  無関心な素振りをしながら上着を脱いで手を洗い終えた俺は、母と顔を合わせずリモコンに手を伸ばした。テレビでは無味無臭なコント番組がやっていた。  「あとケンちゃん、また彼女が出来たっていう話は聞いてる?」  「知らなーい。」  チャンネルをコロコロ変える。どれもあまり面白そうではなかった。  「それで彼女の家によく泊りがけで行くんだってさ。ケンちゃんママも大変だぁ、って。」  本当にあいつは器用に生きてるよな。俺と違って。俺はリモコンをソファに乱雑に投げ捨て、キャリーバッグの置いてある寝室へと向かい、キャリーバッグのロックを外してサッと開いた。そして成人式用のスーツを取り出した。暇だから明日の準備をしよう、という訳だ。  「自由になろうとした結果がこれかよ。」  鼻で笑う。ふとキャリーバッグの隅にあるパンダのぬいぐるみが目に入った。そいつは俺が生まれた時からずっと傍にいたものだった。寝る前はいつも一緒だったのだが、ここに来てからはずっと離れ離れだった。  「ああ……連れてきてたんだったな……。」  優しく手に取った。色合いは綺麗だが毛並みは昔と比べるとかなりボサボサになっている。ぬいぐるみの正面をじっと見つめた。真珠のような瞳が潤んだように見えた。  「いつまでも子供みたいだって? 俺を憐れむなよ。」  わざとらしくそう呟いた後、そっとぬいぐるみをキャリーバッグに戻す。  「明日が成人式か。20歳って実感わかないよなぁ。」  明日、久しぶりに地元の友人たちと会う。皆はどのくらい変わっているのだろうか。変われているのか、変わってしまっているのか、そのままなのか。一方で俺は、非リアでスクールカースト底辺だった頃から何も変われていない。本当に何なんだ俺は。  暗い寝室に差し込むよう、点けっぱなしのテレビからOasisのDon ‘t look back in angerが聞こえてきた。まるで過去を振り返るなとでも言うかのように。そんなことが出来るほど人間は強くない、といつも俺は思っている。  とはいえ俺は20を超えた先どうなってしまうのだろうか。過去を思い出す度に未来も良くないのではないかと感じてしまい気分が晴れない。やはり振り向かずに進むしかないのか。漠然とした不安を感じつつも振り向かずに俺はビニールからスーツを取り出した。
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