手記

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 それから、春と会う事はなかった。  やっぱり赤ちゃんの事は嘘だったんだ、そう自分に言い聞かせた。  あれからすぐに、寮が廃止になる事が告げられ、引っ越す金もない僕は、実家に帰る事に決めた。  敗走。  僕の家ではなく、義父の家だったあの家。  しかし、義父は亡くなり、母と弟が暮らしていた。  その頃文香は冷淡だった。  また彼氏が出来たな、と、思った。  僕なりに、春との恋は大恋愛で、それを失い文香の思惑通りになってしまうのかと不安だったから、帰郷の事は言わなかった。  バンド仲間のひとりが、シンセサイザーをくれた。  車に荷物を詰め込んで、さあ出発、と言うときに、田舎でバンドが出来るのか不安になった。  携帯電話を取り出し、インターネットというものに初めて触れた。  とにかくメンバー募集サイトに片っ端から登録した。  1時間ほどだろうか、勝手がわからず携帯片手に車中でまごついていると、コンコンと窓を叩く音。 「なーかーじいーまっ!」  職場のアルバイト、京だった。  ギャルで、人種がまるっきり違ったが、なんだか年上の僕に懐いていた。 「行く前に、おごれー。マックでいいから。金ないっしょ」  他愛もない話をして、当時は普及しきってなかったカメラ付き携帯に替えたらしく、「なかじま撮ってあげる」  と、言うか言わぬか、パシャリ。  そのデータを僕の携帯に送って、「餞別。」小声で「さみしくなるじゃん」  いじけた様に言った。 「京、泣くとピエロんなんぞ」 「泣くか!」  けど、最後は流石に湿っぽくなった。 「おげんこでね」  いつもの調子ではない。 「電話、しねーから」 「うん、しないで」  笑い泣き、そうなる前にお互い背を向けた。  京は、僕の数少ない友達のひとりだった。 「おまえ、可愛いんだから、化粧薄くしろっ、すぐ彼氏できんぞー!」  初めて、人を「おまえ」って呼んだ。  京は振り返らず手を上げた。  泣いてたんだろう。
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