手記

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初夏、フェスまであと1ヶ月になる頃、彼女は下見兼挨拶に訪れた。 電話で話した時から、ぎくりとした。 声も、話し方もそっくりだ。 現れた彼女は、まるで春の生き写しだった。 背負ったギターはアコースティックで、春よりひとまわり小柄な彼女をよりちいさく見せた。 「コトハラハルです。」 挨拶が終わるのを待たず、「本名ですか?」 「いや、立ち入った事を、すいません」 平静を装い切れなかった。 「本名は晴海なんです。古臭くてきらい。でも、母はどうしてもだったみたくて…」 「ハルは母の名前です。コハルとか、ハルカとか、もっと可愛い名前にして欲しかったって、死ぬまで責めて、ありがとうって言えなかった」 「え?」 「昨年、病気で。あ、すいません、気遣わないでくださいね、今は彼と幸せなんで、さみしくないです。しゅうくん!」 彼女の後ろに隠れて居た様に、頼りない若者が照れくさそうに顔を出した。 「並木 修治と申します。ハルのマネージャーみたいな事やってます。」 これまた驚いた。 どこか若い頃の僕に似ている。 「仲島さん、治さんなんですね、太宰治の。僕の修治は太宰の本名の修治なんで、なんだか親近感湧きます」 「え?オサムさんなんですか?母はシングルでわたし産んだんですけど、いつもわたしの父にあたる人の事、オサムくん、オサムくんって。もしかして?」 と、笑う。 冷や汗。 「いや、はる、って読むんですよ。仲島治で、ナカジマハル。だから、コトハラさんの名前に興味持ちました。」 「えー、それはまた奇妙な縁で!うれしいです!」 無邪気な彼女に安心した。 ふたりに会場を案内し、店に戻ると、ハルがCD棚の前で硬直した。 「やっぱり気になるかな?好きなのあったらかけるけど…」 おそるおそる水を向けると、ハッと我に返った様に「じゃあ、pinkertonお願いします」 と言った。 tired of sexのイントロに紛れて「他人じゃないみたい」と、彼女のつぶやきが聞こえた気がした。 間の悪い事に、しゅうくんはCD棚を見て、 「おばさんのコレクション見てるみたい」 僕もハルも、黙っていた。
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