本章

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渡された書類に目を通しながら、私はため息をこぼした。 神野雨深(かんのうみ)六歳。両親は離婚しており、母親に引き取られた。だが、母親の恋人から虐待を受け、母親からはネグレクトされた末に保護された子どもだ。虐待のテンプレートのような文章に心が苦しくなる。 児童養護施設で働き始めて五年。ここに預けられる子どもたちの生い立ちを知る度に、私は涙を流していた。もちろん、本人たちの知らないところで、だ。虐待された子どもというのは不思議なもので、どんなに酷い傷を負わされようと親に対する愛を失わない。一見、執着のようにみえるその愛情も、子どもは輝いた目で、純粋な心で、親を自慢してくることもあるのだ。 だから私たちはやむを得ないとき以外は決して親の話を持ち出さない。 そして、三月に高校を卒業した子どもがここを出ていった。大学に通うのだと、奨学金を借りて寮に入ったのだ。十八歳ではまだできないことが多くあろうとも、この施設で保護できるのは十八歳まで。彼は成人したとみなされて、この施設を出ていった。そのため、一人分空いた枠を埋めるように彼女、神野雨深ちゃんがやって来ることになっていた。 私は彼女のお迎えを任されていた。担当の職員と共に十三時に到着する予定だ。私は、彼女がどんなふうでも泣いてしまわないように心の準備をしていた。気を抜くと、堪えきれなくなるからだ。 すると、事務所の電話が鳴り響いた。すぐに彼女の担当者だろうと電話に出る。 「お世話になっております。園です。九井さんはいらっしゃいますでしょうか」 電話の向こうから聞こてくる聞き慣れた男性の声に少しだけ安心する。 「お世話になっております。私が九井です」 「あぁ、すぐに繋がって良かったです。予定よりも三十分ほど早く着きそうなのですが、いかがいたしましょうか。もし、ご都合が悪ければどこかで時間を潰してから向かいますが」 園さんにしては珍しい。時間管理はしっかりしていて、いつだって予定通りに物事を進める人だ。なにかあったのだろうかと、不安になる。 「いえ、そのまま来ていただいて大丈夫ですよ。お昼は食べてくるというふうに言伝を預かっておりますが、召し上がられましたか?」 「それなんですけどね……」 園さんの声が小さくなる。 「実はファミレスに寄ったのですが、雨深ちゃんがなにも食べてくれなくてですね。それで早くに出てきたんです」 「食べなかったというのは好き嫌いとかでしょうか。それともなにか、食事にトラウマがあるとか……?」 「実はそこのところがよくわからないんです。一時保護施設にいたときから、人目があると食事をしないといった報告は受けていたのですが……」 なにかトラウマがあるのかもしれない。きっと私も園さんも同じことを思っているはずだ。 「わかりました。まだ、お昼の残りものが食堂にあるかもしれないので、用意しておきます。雨深ちゃんは元気そうですか」 「そうですね。後部座席で今は眠っています」 「わかりました。気をつけてお越しください。事務所で待機していますので、到着されましたら事務所に寄ってください」 わかりましたと返事をもらってから電話を切った。時計を見るとあと十五分ほどしかない。事務の方に声をかけて、急いで食堂に向かった。
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