移り気な君と虹の雨【第1話】

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移り気な君と虹の雨【第1話】

冥府庁の1日は長い。 朝5時に起きて、身支度を整えたらすぐに出勤する。 仕事の内容は様々だ。不審な死者がいないかチェックをする者、来世へ転生するための書類を整理する者もいて、死者に説明をして天国へ行くのか地獄へ行くのかを決める者もいる。 もちろん、その裁判自体を行う者も存在する。 この冥府庁の中で唯一、現世の生きた人間と関わる特殊な業務を行っているのが、「調査課」と呼ばれる部署だ。 この部署に所属する職員だけは、地上に出て、定められた寿命以外で死に追いやられる者達がいないかを調査し、問題があれば解決に当たる。 今日もまた、調査課の職員たちは忙しく仕事をしていた。 調査課に所属している黒野アイリは、これから担当する調査依頼のファイルを見て、大きなため息をついた。 今回の現場は温泉旅館の近くにある紫陽花園という名所らしい。地図で見るに、ずいぶんと辺鄙な山奥のようだ。 先ほど、上司からもくわしい説明を受けたが、事件に関して不明な点も多く、かなりの長丁場になりそうだった。 温泉地での長期滞在調査。 あいつは喜ぶかもしれないが……と、彼女の相棒である神崎イサナのいる方を眺める。 「ん?」 見間違えでなければ、その相棒は勤務中にも関わらず、なぜか熱心に文庫本を読んでいた。 金髪に碧眼、モデルのような整った顔立ちの彼は、堂々とサボってる姿でさえ絵になるから余計に腹立たしい。 「おい、神崎。勤務中に何をしている」 とアイリは思わず咎めるように声をかけた。 「何って、小説を読んでるだけです」 と神崎は本から目も離さずに答える。 「見れば分かる。そんなのは自宅でやれ」 アイリは持っていたファイルで、スパン!と神崎の頭を打った。 神崎は痛っ!と言いながら顔を上げる。 「ひっどいなあ、アイリさん……今、一応これ読んでるのも仕事のうちなんですって」 「そんな仕事など、聞いたことがないが」 「えっ、これダメなんですか?」 神崎は悪びれずに言った。よく見れば、少し目元が赤い。本の内容に感動して涙ぐんでいたのだろうか。 他の皆が慌ただしく打ち合わせをしたり書類を作成している中、よくそこまで読書に没頭できたものである。 「はあ……」 アイリは特大級のため息をついた。 神崎が配属されてきたばかりの頃は、そのなれなれしい態度や真面目には見えない素行を含め、彼女は毎日厳しく怒っていたものだ。 ーーが、最近では怒るのも面倒になってきた。 「あのな、神崎。お前はもう新人じゃないんだから、人に言われずとも自分から真面目に働こうとか……」 「えーっ?だから、俺は真面目にこの資料を読んでるんですってば」 ほら、と神崎は文庫本をアイリに差し出した。何枚かの付箋が貼られており、その部分のページには今回の調査地付近の旅館や観光地について書かれていた。 アイリはそれをパラパラとめくってから、神崎に突き返す。 「いや、調査地が舞台だからって、何をのんきに読書なんかしてるんだ。全く、どうせお前の頭には、今回の仕事は温泉旅行に行けてラッキーくらいしかないだろう」 「うっ……確かにちょっと思ってたのは否定しませんけど……。でも、旅館の件はこの本に書かれてる情報で事件解決の糸口が掴めそうな気がするんです」 と神崎は言った。アイリは疑わしげな目で彼を見る。 「ほう?じゃあ、その根拠を言ってみろ」 「それはですね、この本を最後まで読んでみないと、まだ……」 「ん?」 アイリは神崎をギロリと睨んだ。神崎は、慌てて口を押さえた。 「な、何でもないです! でも、本当にそうなんですってば!ほら、ここ見てくださいよ」 と神崎が指し示したページには、『この小説は、著者がこの地を訪れた際に地元の住民から聞いた、過去の事件の話を元に書いた作品である』と書かれていた。 「なるほどな。しかし、いくら取材した場所が実際に事件が起きた場所でも、そのまま小説に書けるものなのか?脚色も含んでいるなら、鵜呑みにはできんだろ」 「どこまでが事実かは俺も気になってたんですよ。でもまあ、細かいことは置いといて……」 「いや、ダメだろう。そこを調べるのが私達の仕事だ」 アイリは冷静に指摘した。 「……ですよねー」 神崎はため息をついた。 「まあでも……とりあえず、さっそく今から現地へ行ってみましょうよ。ね?例の温泉も予約しておきましたし」 「いつの間に予約したんだ」 アイリは驚いた。 「まあ、そこは課長に先回りしてお願いしておいたので」 神崎はここぞとばかりに得意げな顔をする。 「……いや、そこは相棒の私に先に相談すべきだろう」 アイリは呆れて言った。 「まあいい、予約できているなら行ってみるか」 「やったー!アイリさん、今夜は温泉ですよ温泉」 神崎の顔がパッと明るくなる。 「じゃあ早速、荷物を準備してきますね!」 と神崎があまりに嬉しそうに言うので、アイリも思わず苦笑するしかなかった。
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