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一、高校生編
無いことが、これほどまでに罪深いのか。
俺だって今までだれかにおしりのぽんぽんがないことを告げたことはないし、両親だっておしりのぽんぽんは付いている。
『タレントの月読、おしりのぽんぽんがないことを告白』
ネットニュースの見出しでこのような記事が増えてきたが、有名人が注目されなくなったときの苦肉の策として公表しているのだろう。
なんとか芸能界で忘れられない存在になるための悪目立ちに過ぎない。そして公表した有名人は軒並み健常者から「そうだと思った」とか「元からポンナシっぽかったよね」なんて罵倒されるのだ。
さらにはその苦悩を、葛藤を、同士たちの救いになりたいから公表に至りました。みたいなことを自己陶酔気味に語らうが、クソだ。俺には響いた試しがない。
有名人は少しでも注目を集め、悲劇のヒロインにでもなった気。おそらく脳内では、この苦悩のストーリーが映画化されたり、ドキュメント番組で語ったりしている。
こんなことでマイノリティの象徴として崇められるとでも思っているのだろうか。皮肉なものだ。おしりのぽんぽんがない俺たちのような欠落者から崇められるなんて、まずないだろうに。
俺だって、本当はおしりのぽんぽんがないと打ち明けてしまいたい。しかしそれを受け入れてくれる人がどれだけいるだろう。友人、学校の女子たちからも、あいつは「ポンナシ」と揶揄されること請け合い。
もしかしたらもうバレてやしないか。そう思って気を張って生きるしかないのか。
自慢じゃないが、俺はポンナシにも関わらず男女問わず友人は多いほうだ。別に陽キャという自己認識はないが、中学時代からサッカー部に所属していれば自然と陽キャ連中と仲良くなって、そこのグループに所属していれば人が寄ってくる。
そんな俺が実はポンナシだと知れ渡ったとき、同級生は俺にどのような視線を送るだろう。学内上位カーストから一気に最下層まで落ちていって、いじめの対象に成り下がり、俺はふさぎがちになって不登校。そんな転落人生が待ち受けているのだろうか。
そのような悩みから「人工おしりのぽんぽん接合手術」を考えたこともあるが、本来的な役割を担うことはない飾りだし、年齢制限が設けられていて17歳の俺ではまだ不可能である。
過去にはおしりのぽんぽんを切除して人工的に最強の戦士を作りだそうと試みた歴史もあった。結果としては敵味方、見境なしに切りかかる狂戦士が出来上がってしまったという血塗られた歴史もあって、ポンナシは人あらざる者として扱われる名残りが現代でも強い。
差別はダメだ。そういくら学校で教えられても、人間の本能的な部分はそう簡単に変わらない。人間の生存本能として異物はなるべく排除されるようインプットされているのだ。
表面上はきれいな社会を装って、ポンナシにも生きやすい空気であるかのように偽っているに過ぎない。そんな簡単な話しではないことは誰もが理解しているはずで、差別心の持たない人間が誕生するというのは、イコール感情のない人間。例えば好きな人が死んだら哀しいし、プレゼントをもらったら嬉しい。そんな素直な感情が否定されることと同義なのだから。
変わりようのない現実に対する不満を述べても、ある日突然、俺の尻からおしりのぽんぽんが生えてくることなんてないし、やっぱり人はそう簡単に変わらない。先天的に備わった嫌悪感なるものは、何か人間が生きていくために必要な要素であるために、そして幼ければ幼いほどに、その性質は色濃い。
その嫌悪感をむき出しにされた騒音は、その日の放課後から鳴り始めた。
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