万年鯨

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 私はおそらく、万年鯨に乗ったのだと思う。  その鯨はほとんど骨になって、地上に沈んでいた。その時はそれが万年鯨の骨だとは知らなかった。だから私は、手ごろな物陰を求めて、そこで一眠りすることにした。目覚めたら空にいた。  ちょうど電車に乗るような感じだった。鯨の肋骨の空間は浮力があるのか、案外安定していた。ひとまず落ちる心配はなかったが、気が気ではなかった。意図せず連れ去られる形になってしまって、旅の目的地からは外れているし、何しろ大きな鯨だった。ただの人間の私などすぐに吸い込まれて消えてしまうのではないかと思った。私はお守りを握りしめて、懸命に自分を保とうと試みた。結果的には、状況はそう悪くはなかった。おそらく、私はほとんど溶けなかった。 *  手元の時計では鯨に乗ってから一週間が過ぎたが、鯨は地面に降りてくれない。鯨が地上に降りてくれないと動けないので、開き直って空の旅を楽しむことにした。鯨の体が大きいから遅く見えるが、実際はそこそこの速度で進んでいるのだろう。地上の景色はたまに移り変わっていったが、ほとんど常世特有のなだらかな野原だった。  地上を見下ろすのにも飽きたので、鯨の周りも観察してみることにした。私も万年鯨をみた経験が豊富にあるわけではなかったが、以前見た鯨よりも、周りにいる小さな生き物が多い気がした。そしてそれらは、鯨の体をついばんでいるように見えた。現世の鯨が死後海底に沈み、幾多の生物の糧となるように、万年鯨が自らを他の生物に還元しているフェーズなのかもしれないと思った。まあ、わたしは専門家ではないから本当のところはわからないが。 *  自分が溶けないようにこの日記を書いている。まだ私は溶けていない(はずだ)。鯨に乗ってから一か月が過ぎた。空腹もないが、ここがどこだか分からないし、いつ溶けるとも限らない。そろそろ飛び降りを試みるべきだろうか。常世では死なないとは言われているが、この高さから落ちたらさすがに体が壊れるだろう。そうしたらもう、死と同義だ。  前の日記を書いてから、鯨の中で進行方向に移動している。どうせなら先頭車両を拝んでやろうと思ったのだ。万に一つも頭と意思疎通ができたら、地上に降ろしてもらえんだろうかという気持ちもあった。だが進めども進めども頭にたどり着かない。改めて、万年鯨は地形並みに大きい生き物なのだと思った。 *  時計がこわれた。  よって、まえの日記からどれくらいたったのかわからない。  溶けていないとおもいたい。  それいぜんに、正気でいられなくなってきた。    帰りたい。   *   長いこと眠っていた気がする。今は驚くほど意識がはっきりしている。相変わらず鯨は空に浮かんでいるし、進めども進めども頭にはたどり着かない。  こうしていても埒があかないので、次に手ごろな道かランドマークが見えた際に、この手記だけでも地上に投げ落とすことにした。  ここから降りることができたら、私も蘭架堂観測所へ向かおう。  雷円、  そういうわけなので承知してください。会えなかったらすみません。そのときは私の家族によろしく伝えてください。  あとのことは、頼みます。 *  これを拾った方へ。  私は砂山和歌子という者です。  この手記を、蘭架堂観測所へ届けてください。  西暦1830年頃に雷円という僧侶が訪ねてきたら、彼にこの手記を渡してください。  どうかお願いします。 ーー旅行者のものと思われる遺失物(蘭架堂観測所保管)
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