懐旧

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 今日の回診は彼で最後でしたから、診察後、私は診療所の控室に戻りました。自分のデスクに腰を落ち着かせると、長いためいきが一つ、自然とこぼれ落ちました。  彼は私のことを覚えていないのか、それともたんに気づいていないだけなのか、私には判断が付きません。  椅子の背もたれに深く背中を預けて、私はまた、手元のカルテをめくりました。  彼がこの診療所に転院してきたのは、一か月前のことです。元々はもう少し設備の整った都市の病院に入院をしていたものでしたが、症状が落ち着いたことと、本人たっての希望により、この診療所で処置を受けることになりました。  彼についた診断は、高次脳機能障害。脳梗塞をきっかけに発症したもので、軽い記憶障害があります。主に見られるのは、自分が食事をしたことを忘れたり、数秒前に話していたことを忘れたりする短期記憶障害ですが、時折、自分の娘や時間を認識できなかったりする見当識障害も生じているようでした。  しかし、彼がそのような状態でなかったとしても、彼が私をジャック・シュトライザーだと判別するのはいささか難しいことなのかもしれません。第一、私と彼は、お互い一緒に過ごした小学校時代から、随分年を取りました。私において言えば、前髪は禿げ上がり、顔の皮膚も大いにたるんでいます。  そして、第二に、私のラストネームは、もうシュトライザーではありません。  相貌も違う、名前も違う。  彼の中に少しでも私との思い出が残っていたとして、もうすぐ81歳になる私を、思い出の中のそれと同じ人物だと認識するのは至難の業でしょう。 そう。だから、彼が私に気が付かなくても、はたまた覚えていなくても、それは仕方のないことなのです。それに、私は一時期、いえ、きっと彼がこの診療所に現れなければ、ほとんど永遠に、自分勝手な理由で彼のことを頭の隅においやっていました。  それなのに、彼にだけ、私のことを覚えていてほしかったなんて。気づいてほしいなんて。そんなことを思うのは、おこがましいことに違いありません。 そんなことを考えながら、私はもう何度も読み返した彼のカルテをまたゆっくり辿りました。
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