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僕は君を忘れないし、君も僕を忘れないと思うよ。
この言葉が、私の真意から出たものだったのか、それとも寂しさを紛らわせるために出た強がりだったのか、今ではもう覚えていません。
しかし、少年だった私が、かつての私の唯一の親友だったフラン・ジヴェルニーに対して、いつまでも僕のことを忘れないでいてくれればいいと、心の底からそう願っていたことだけは、今でも確かに断言できます。
*
ありがとうございました、の声に会釈してから病室の扉を閉めると、次に診察に向かうのは、いよいよ彼の病室になりました。
年を取るごとに大地からの引力に逆らえなくなり、地面へと傾ぎがちになった上体を意識して逸らすと、もうほとんど天頂に差し掛かった太陽の光が窓の桟に反射して、周囲の壁に光の柱を築いているのが目に入りました。
老体になるべく負荷がかからない仕事を。という医院長の計らいにより担当することになった、この診療所に入院している全患者の午前の回診は、医師としての私に与えられた職務のほとんど大半を占めています。
全患者、といっても、バスで二駅行ったところには15の診療科と4つの部門を備える大病院があり、元々の人口もそう多くない町に立地するこの診療所では、入院患者の数は常に両方の指の数に収まるほどにしかなりません。
入院患者の他には、スポーツの最中に怪我をした少年や足のリハビリテーションに来る老人、風邪の症状がある若者などが毎日かわるがわる来院していて、私よりも数十歳年下の院長は、経営安定のために増患を図る策をあれこれ打ち出したりしていますが、今年81歳になる私の老体には、現在の穏やかな業務体系がなんだかんだありがたく感じられます。
自分の心臓が早くなるのを感じながら、私はバインダーに挟まれたカルテをめくりました。そこにある彼の名前を手早く確認して、私は決して自分が早足にも遅足にもならないように意識しながら廊下を進みます。
そして、彼の病室の前に付き、扉をノックするときにも深呼吸をしたりなんかしません。朝、髪をくしで撫でつけるのと同じように無造作に、食事の最中にグラスを取るように自然に、私はあたかもそれが長い医師生活の中で自然に培われた習慣であるかのように、彼に繋がる病室の扉を二回、中指の第二関節で叩きます。
「失礼」
そう声を掛けて、扉を開けてから、自分が患者の病室に入るときに必ずそうするように、白衣の襟がきちんとたたまれているか確認することを忘れていたことが頭を過りました。しかし、ベッドに横になっていた彼に晴やかな微笑みを向けられてしまっては、もう扉を閉めることはままなりません。
「おはようございます、ジャック先生。」
彼はしわの寄った手で、自分の胸の上までかけられていた掛け布団をつかみ、下ろします。私はその様子を、手近にあった診察医用の椅子を自分の下へ引き寄せながら見守りました。
彼は、ゆっくりと上体を起こし、私が診察しやすいように両足をベッドからおろして私と向き合いました。そして、私に向かって、またにっこりと微笑みます。
その笑顔が、医師に対する儀礼と親愛的な意味合い以外のものを持ちえないことを認めたとき、私は自分の中に、諦めと、ある種の安堵が沸き起こるのを感じました。
フラン・ジヴェルニー。
かつて私の親友だった彼は、やはり、私のことをもう覚えてはいないらしいのです。
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