虹色の油膜と黒い奇跡

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「葉山先生、私ねぇ明日卒業して上等兵になるんだぁ」 酔った学生は、原油と酒が混じったような臭いの息づかいで葉山のベッドに腰を下ろして座る。嫌な予感がして葉山は女学生に背を向けるように寝返りを打った。鎖骨の下まで伸ばした黒い髪をうねらせて女学生は葉山のベッドに潜り込んできた。先輩達からある噂を聞いていた葉山は、女学生が伸ばしてきた腕を邪険にしないように優しく振り払った。彼女達をこれ以上傷つけてはいけない。 「僕はそういうのはいい。申し訳ないが他の人をあたってほしい」 「せっかくお小遣い稼ぎするなら、額は少なくても若くて真面目な人が良かったのに」 「小遣いをやるからそういうのではなく一つ聞かせてほしい話がある。他は不要だ」 「何が聞きたいの?堅物先生は?」 「逃げたいと思ったことはないのか?」 「ないよ。先生が一緒に逃げてくれるなら治安警察に捕まって投獄されてもいいけどね」 まだしつこく絡めてくる腕がうざったいので、指を絡めて手を繋いで指関節ごとがっちり押さえ込んだ。 「そういうのは不要だと言ったはずだ。落ち着きのない手だな」 「…。葉山先生が卒業していった先輩達に密かに人気な理由、今ならなんかわかるな。他の教員はお小遣いちらつかせてすぐ言い寄ってくるのに」 「僕に人気があるなら授業に誰も来ないのはなぜだ?」 「だってさ。勉強しても私達の行き先は女子志願兵で生きて帰れない。勉強なんかしても役に立たないし、残り少ない命なら遊びたい。二階級特進の上等兵からスタートって言っても、女子志願兵の実体はなんとなく知られてるしさ」 「知られてる…のか?」 「うん、みんなわかってて黙ってる。女子志願兵でも一等兵や二等兵は命からがら帰ってきた人もいるわけじゃん?そういう人に悪いのと、下手な噂をすれば治安警察に投獄されるから」 「そうか…。わかってここに来るのか…」 「さっき先生は逃げたくないかって聞いたよね?家に帰っても食べ物もろくにないからどうにかして食べ物を手に入れるしかない。逃げても行き先とする事は結局同じ。だからここに応募するの、みんな。少しでも待遇のいい所を探してやってくる。もう心までやつれて疲れ切ってるから玉砕だろうが万歳だろうが、死んでもいいやって。どうせ死ぬなら目一杯贅沢してからがいい。先生みたいな本物の士官学校を出てるエリートにはわからないだろうけど」 彼女が話す本物の士官学校という部分は、若干皮肉混じりで言葉尻がキツかった。士官学校を出てこの上級女子志願兵大学校に配属された軍人男性が、彼女達の足元を見て小遣いを渡し、「そういう関係」になっている。同じ軍人として情けないが敗戦が濃厚で軍規は緩みに緩んでいる。 「申し訳ない。新任の立場で先輩に意見出来ずにいる」 「アハハッ、本気にしないで。先生は育ちも良さそう。生徒相手にお小遣いで釣り上げたりしないし、エリート中のエリート?」 「大した家ではないよ。工業製品を扱っているただのメーカーだ」 「ん?工業製品のメーカーの家なら国に欠かせない仕事だから兵役免除あるよね?なんで使わなかったの?」 「その…なんだ…。国民の一人として義務をそう簡単に免れる訳にはいかないと考えた。僕がいなくても兄が二人いるから家は困らない」 「カッコいいー!先生みたいな誠実な軍人がいるなら意外と逆転して戦争に勝っちゃうかも」 「…そうなるといいな…」 どうみてもほぼ勝ち目がないと知ってるのは軍の上の方だけか。 「絶対そうなるよ!…だから私も上等兵頑張ってくるね。授業一回も出なくてごめんなさい」 彼女は僕の手をギュッと握って力を込めた。 「学校では絶対に教えられない事を一つ君に教える。死ぬな、生きて帰れ。隙を見て戦地で脱走しろ。僕が教えられるのはこれだけだ、すまない」 彼女の手をそっと握り返した。 「先生、お別れのキスして。キスしてくれないなら思想犯として治安警察に密告するよ?」 「残念だか証拠もないのに治安警察は動かないぞ」 彼女はスカートの裾の内側からボイスレコーダーを取り出した。 「これ、転送機能付きだからバックアップも取れてる。キス一つで済むなら安いよね?」 「参ったな。バックアップと一緒に録音機を渡すならキスで手を打とう」 彼女の自室に録音のバックアップを取りに行き、そっと抱き寄せて頬に唇を寄せる。 「頬じゃ嫌…」 「キスとは言ったが唇とは言ってない」 「原油の臭いがするから嫌なんだよね…」 あけすけに喋っていたはすっぱな彼女が咽び泣いていた。真っ黒な原油を吐く女の口はガソリンの臭いがする。これはどうやら遺伝子改造の副作用らしい。 「そういうことじゃないんだ。一つこちらの条件を飲んでくれれば唇にキスをしたいが、君の要望とは異なってしまうから聞いてる」 「何?」 「うら若い女性を小遣いで釣るような卑怯な真似をしたくない、男として。小遣いを渡さない男とキスをしたいか聞きたい。その、つまりだな。純粋にキスがしたいか聞いている」 彼女は涙を拭って笑い転げた。 「…もうダメ、先生が真面目過ぎて笑い止まらないよ。純粋にキスがしたいよ、私。お小遣い稼ぎとかもういいや。先生の方が年上の癖にかわい過ぎ」 緊張して唇が震えていたが、葉山は死に赴く女学生にキスをした。微かに臭う原油の臭いは全く気にならなかった。原油を吐き出し続けたせいか、ほんの少し黒ずんだ頬を指先でそっと撫でた。 「先生も死なないで。真面目過ぎて心配。生きてまたどこかで会おう。そのときは数学と物理教えてね」 「ああ、今度はちゃんと授業を受けろ。君の名前は?再会するのに名前がわからないと困る」 「和都田美波。生きて先生と会いたい、またね。さよならは言わない」 和都田美波は、か弱い微笑みを浮かべてから葉山を自室から去るように促した。扉を閉じた後に彼女がまた咽び泣く気配がした。  黒い原油を吐き出す乙女の心は純白の真珠のように清らかで美しかった。葉山実は敗戦後も和都田美波の消息を気に掛けていたが、その行方は十年経っても知れないままだった。  原油を吐き出す遺伝子改造の技術は、闇ルートで売られ日本の裏の基幹産業になった。原油の埋蔵量の差で日本を見捨てて韓国を最終防衛ラインにしたアメリカが、都合よくまたすり寄ってきた。新しい日本政府はアメリカにその技術を高値で売り付けた。この技術を開発した日本人研究者は、敗戦後は足腰が曲がり上手く歩けない年寄りになっていた。 「あのときに倫理的な問題がある、採算が合わないから赤字だと研究者としての私を切り捨てるからこうなるんですよ。黒字にしましたよ、研究者の意地で」 アメリカの政財界の大物には執念深い悪魔に見えた。倫理的な問題が大きい研究をしつこく続けていたこの男には、人の心があるのだろうか。極秘研究として続けていた被験者は、肺と肝臓、腎臓がやられて若くして死亡するデータがある。そんな研究を極秘で続けさせていた日本という国は、今までと同じようには侮れない。共産主義連合軍にくれてやってたまるか。  日本は敗戦の賠償金を支払う代わりに共産主義連合軍の実効支配は避けられた。一度は日本を見捨てたアメリカが、原油人間の技術欲しさに口出しをしてきた。日本は独立国のまま、干渉地帯とするべきだと。アメリカ側の譲歩は北海道にロシアと中国の軍事基地を置くことだった。沖縄はアメリカが渡さないが、北海道ならばと。津軽海峡がまるで韓国と北朝鮮を隔てる板門店のようになった。  国の分裂こそ避けられたものの、極東アジアの火薬庫となった日本。黒い争いの火薬にいつ火がつくのかわからない。戦後の意味合いが変わった。戦後とは新たな戦争までの準備期間になってしまった、20XX年。戦後は平和を目指す期間であったという記述は教科書から削除された。平和憲法も遥か昔のこと。昔を生きた人が平和は当たり前のことだと安心しきって、平和について無関心だから戦争になった。葉山実は実家の工業製品メーカーで専務取締役を勤めながら、昼休みに昔の本を読んでそう感じた。 「失って初めて気がつく尊さか 平和の理念と若き命よ」 葉山実は軍人の職を失ってから実業家の家の三男として、戦後復興の特需景気に乗って増産体制に入った組み立てラインを視察しに向かった。黒い原油の臭いがする和都田美波の唇のぬくもりを拭い去るように昼も夜も無く働き続けた。 (了)
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