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横断歩道の信号の「止まれ」の人形の光が雨で滲み出し、暗がりを赤く染める真夜中。その赤色は、こんな時間に車なんて通らないからと信号無視して道路を横断する夫の背中を仄かに包む。彼と離れたくないので、私は黙って後をついて行く。
どれだけ歩いたのか、過ぎ行く時間の感覚は不確かだった。まるで時空が歪んだかのように、いつの間にか若草の匂いが立ち込める森の中をさまよい、風でしなる草葉の中をわけいって、私たちは川縁にたどり着いた。行く先を知らされていなかった私は、雨に濡れた服にへばりついた緑葉を不満げに払い落としながら、夫の名前を呼んだ。
名前を呼ばれた夫は、「そうだったね」と思い出したように笑顔で振り向いた。
「直子だけだったよね、僕のことを名前で呼んでくれたのは」
きっとそうだったのかもしれないけれど、私が呼んだ名前が本当に夫の名前だったのかはわからない。当てずっぽうで読んだ名前が本当に夫の名前だったのならとても嬉しいことなのだけど、優しい夫は知らぬ名前で呼ばれたとしても、私に気を使って本当の名前で呼ばれたふりをしてくれるだろう。おそらく意識の半分以上が虚構の世界に振り回されている私は、いつも通り夫の優しさに甘えることにした。
雨は静かに止んで、目前の川の流れはみるみるうちに落ち着き、かわいい小川となった。私たちは濡れた体を寄せ合って、小川にそっと足を入れる。小川に映る満月が波雲のように波紋に揺れて、再び元の満月に戻ると、水面に映る人影はひとりきりだった。
ここに姿がないのが私でも夫でも、どちらでも良かった。でも、夫と手を繋ぐと私の手の方がことさらしわくちゃで、嫌でも気付かされる。
「ずっと一緒にいよう」
夫がそう言うのなら、私はどれだけ救われただろう。でも、夫は私の手を握りしめるだけ握りしめて、何も言うことは無かった。
まばらな記憶の中で生き永らえる無様な私を夫は優しく見つめるばかりだ。
貴方の名前を思い出したら、この先にも連れて行ってもらえるかしら。
後方からパトカーの音が近づいてくるのがわかる。この音を聴いた後は、家に連れて帰られて、若い夫婦にこっぴどく叱られるのだけは承知しているものだから、ここぞとばかりにとぼけることにしていた。
夫はそんな私のやんちゃを笑い話にして聞かせた。私にはそんなこと身に覚えがなかったけれど、笑ってみせた。
それにしても、今私の隣にいる男性は誰だったかしら。
彼は「僕が誰かなんて知らなくてもいいよ」と言って私を抱き寄せた。
きっと私の大切な人なのだろう。
もう理由なんてそれだけでいい気がして、彼の胸の中で目を閉じる。
また、雨が降り出した。
私たちは、重なり合って、このまま雨に溶けていく。
そういえば、夫は、雨男だったなぁ。
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