もう幾つ伸びると、

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 ()()()()()、と気がついたのは母の三回忌の一週間後のことだ。  私の母の死因は、焼死だった。忘れもしない。二年前の十一月二日、寝タバコをしていた隣人の家が燃えて、それが母の一人暮らしだった実家に燃え移り、寝ていた母は逃げ遅れて、そのまま帰らぬ人となったのだ。享年六十歳だった。まだまだ、人生これからだったのに。  もうまるまる二年も経つのに、未だに母は私の夢に訪れて、存在しない幸せな未来を見せて去ってゆく。  これからやっと親孝行できると思っていた矢先だった。片親で、私は手の掛かる娘だったろうから、随分と苦労を掛けた。手の掛かる小娘だった私もやっと結婚し、息子も生まれたから、後は孫を可愛がる穏やかな老後を送ってもらおうと思っていたのに。  厳しくも優しかった母。手が温かかった母。親不孝な娘を持った母。苦労だけして、あっけなく死んでしまった母。  一日の二回、朝と晩に、私は生きていた頃の母の姿を、必ず思い浮かべる。仏壇に飾った母の遺影に手を合わせることを習慣にしていたのだ。親孝行もできずに死んでしまった母を、せめて忘れてしまわないように。  遺影の中の母の姿は、亡くなる直前のものだ。いつからそうだったのか、もう思い出せないくらい昔から、私と母は一ヶ月に一度、月の末に必ず写真を撮る習慣があった。写真屋でしゃんとして撮ることもあったし、家で旦那に撮ってもらうこともあった。  その時は、久々に写真屋で撮ってもらったのだ。泊まって行ったら? という私の誘いを断って実家に帰ったその翌日、母は二度と会えない人となった。六十歳の節目の記念に撮ったはずなのに、まるで遺影を撮りに行ったようになってしまった。  遺影の中の母は、生きていたそのままの姿で笑っている。私は毎日朝晩、母におはようとおやすみの挨拶をする。  毎日そうしていたら、やがて旦那や同居している義父母も、私のまねをして毎日母を弔ってくれるようになった。私にその気はないが、同調圧力というか、朝食、夕食の前に毎回必ず合掌している私の手前、そうせざるを得なかったからかもしれないが。  それでも、毎日二回、家族みんなで母を弔うことを習慣としていると、私は生活を母と共にしているような気になって嬉しかった。和室の襖を開けていると、居間から母の遺影が正面に見える。そうしていると、母がいつも私を見守ってくれているような気持ちになれた。  しかし今は、まるで封印するようにその襖は閉じきられている。  私は襖の引手に手を掛けた。心臓の鼓動が意図せず早く鳴るのを感じる。冷や汗が伝う感触さえする。自分の家の一部に入るとは思えないほどの緊張と恐怖が、身体中の肌という肌の表面を滑る。  仕事に出た旦那と、朝から用事があったらしい義父母を見送って、遅めの朝食を済ませようとしていた。朝食をとる前には、母への挨拶をしなくてはいけない。  私はゆっくりと深呼吸を済ませると、勢いをつけて襖を開け放った。  窓から光が入っているのに、この部屋はやけに薄暗い。前からこうだっただろうか。  薄暗い空気が全身にまとわりつくのを感じる。仏壇まではたいした距離じゃないのに、歩みを止めそうになる。  仏壇の目の前にたどり着くころには、心臓の鼓動はいっそ張り裂けそうなくらい大きくなっていた。全身を取り巻く恐怖と強い違和感に、一瞬呼吸の仕方さえ忘れそうになる。  私は仏壇の前に座り、ゆっくりと写真の中の女性と目を合わせた。  また、伸びていた。  昨日よりもほんの一センチも満たないくらい、でも明らかに伸びている。だって、昨日は鎖骨に届かないほどの長さだったのに、鎖骨を覆っている。  伸びるのだ、遺影の中の、母の髪の毛が。  
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