もう幾つ伸びると、

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 母の三回忌からさらに、二週間は経った日のことだった。  いつも通りの朝だったが、やけに天気がよかった。空はからっと晴れていて、窓から差し込む陽の光が眩しくて。ずっと曇りの日が続いていたから、私は久々の明るい日の光に、心が軽やかになるのを感じていた。  もしかしたら今日は、母と明るい気持ちで向き合えるかもしれない、と思っていた。遺影の中で母の髪は伸び続けるかもしれないが、それでも母の笑顔は変わらないと思えるかもしれない、と。  いつもよりも心無しか軽い襖をゆっくりと開けた。私は目を瞑って、遺影の中の母の髪の毛が昨日よりも伸びている様子を想像する。不思議と、いつもの肌をなぞる恐怖感はやってこなかった。  今日は大丈夫かもしれない。期待と緊張と、ほんの少しの恐れの感情で胸が高まる。  私は足の先から静かに和室の中に入っていた。和室の襖を閉めると、夫が見ているテレビの音や義父母の話し声が響く居間の賑やかさからは隔絶される。  気を鎮めようと、努めてゆっくりと歩いた。窓から陽の光が入って、和室の中を歩く私の影ができる。  目を瞑ったまま仏壇の前に座った。静かな部屋で、自分の心臓の音だけが聞こえる。  ゆっくりと目を開けて、母を見た。  息を呑む。  ガタッ  気がついたら、立ち上がっていた。 「なんで……」  遺影の中の母の髪は、昨日とは違っていた。でも、おかしいのだ。昨日の母の髪は、たしか胸元すれすれくらいだった。それから、伸びるはずなのだ。それなのに。 「なんで、短くなって……」  目の前のショートヘアの、中高年の女性は笑っている。生前の母によく似た笑顔に見えた。でも、この写真の中の女性が、母だとは決して思えなかった。 「……誰なのよ」  緩やかに下がる眉が、上がった口角が、三日月みたいに細まる目が、全て気味が悪くて恐ろしい。誰だ、コレは。 「……っ!」  とてもその場にはいられなかった。私は行儀悪く走った。早くこの空間から出たかった。遺影の中の女性の視線の先から、逃げたかった。  襖を勢いよく開ける。 「……どうしたんだ、お前」  居間のテーブルで新聞を読んでいた夫が、こちらを訝しげな顔で見ている。陽の光が差し込む、明るい居間。いつも通りの朝。夫の怪訝な顔に、やけに安心した。  それでつい、口を滑らせた。 「それが、お母さんの髪が、急に短くなったのよ……」  夫の眉間の皺がさらに深くなる。しまった、と思い口を塞ぐ。夫だけならともかく、今この場には義父母もいるのだ。表面的には話に同意してくれても、裏で何を言われたかわかったもんじゃない。  夫が呆れたように溜息をついた。 「また、そんなことを言ってるのか……。お前、ちょっと精神が参っちゃってるんじゃないか?」 「……そんなことないわよ」 「まあ、無理もないか。……お袋さんが亡くなって、まだ一年も経ってないもんな」  ……え?  驚きすぎて、声も出なかった。  まだ一年も、経っていない? 何を言っているのだ、この人は。  母が死んだのは二年前だ。間違えない。ついこの間、三回忌も済ませたじゃないか。 「何言ってんのよ……っ! こないだ三回忌も済ませたじゃない……!」  自分の親じゃないからと言って、馬鹿にしてる。いつ亡くなったのかも覚えてないなんて。それかもしや、私を揶揄っているのか? 「……お前、ほんとに大丈夫か? 少し休んだ方がいいんじゃないかな?」  夫は呆れを通り越して、心配そうな顔で私を見た。その顔は切実に私の身を案じていて、揶揄っているようには思えなかった。  私もふと、冷静になる。いくら夫が母に無関心だからと言って、二年前に亡くなった義母が、一年前に亡くなったと勘違いすることなんてあるのだろうか。ついこの間、三回忌も済ませたというのに。  もしかしておかしいのは、私の方なのだろうか。 「……あの、お義母さん、私の母が亡くなったのは、いつだった、でしょうか……?」  こちらを驚いたように見つめて、微動だにしなかった義母に問いかける。義母は自分に話を振られるとは夢にも思っていなかったのだろう。一度ぴくりと肩を振るわせた。 「……九ヶ月前だと思うわ。今年の、二月二日。間違えないと、思うんだけども……」 「そう、そうだよな?」  言いにくそうに言葉を発した義母に、夫も瞬時に同意する。義父も深く頷いている。この場で異質なのは、誰が見るにも明らかに、私だ。  母が死んだのは、本当に九ヶ月前なのか?  でも、それなら私の記憶はどうなる? 間違えなく、私は母の三回忌をした。間違えるはずがないのだ、そんな、自分の母親の命日を。  それなら、どうして。  ふと、髪が短くなった母の遺影のことを思い出す。  母の命日が二年前から九か月前に。遺影の中で、伸びて続けていた髪が、急に短くなって。  ——まるで、髪の毛を切ったように。  はっとした。初めて眼鏡をかけた時のように、あるいは濁った水が濾されたように、視界が真っ白になる。  ……もしかして母は、遺影の中で歳をとっているのではないか。母の命日は、一ヶ月ずつ後送りになっているのではないか。ちょうど、一ヶ月に一度撮る母との写真を、遺影にして。  そうか、そうなのだ。そうしたら。  ふと、仄暗い妄想が頭をよぎる。振り払うべきである、とすぐにわかった。でも、ふと頭に浮かんだ()()は、甘美な響きで私の中を漂って消えない。  もしかしたら。もし、母の命日があと、九ヶ月後送りになったら。そしたら、母が私の前に帰ってくるかもしれない、と。
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