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ジークハルト・ロートレッド。先の、隣国との戦を勝利に導いたフィロント王国の若き英雄。氷の魔法を操り、黒き竜を駆る、《氷の騎士》。
そう呼ばれるのは、自らの魔法の特性だけではない。類い稀なる判断力から導かれる、素早い決断力の怜悧さ。そして、見つめる何もかもを凍らせてしまう様な、冷たく深い天藍石の瞳。
巷で女の人達が騒いでいることは噂では聞いていた。でも研究に没頭しているフィーナには、その手の話は全く興味の無い事だった。
だから知らなかった。そんなに凄い方だったなんて。
自分に微笑んでくれるあの人の微笑みは、暖かかったから。
自分だけではない、あの人は皆が憧れている人だった。元から、手の届かない人だったのだ。
しかし、こんな事をしでかしてしまったことで、更に遠くなってしまった気がする。胸がシクシクと痛んで、涙が出る。
諦めるには、好きになり過ぎていた。
もうあの人はきっと、お茶を出すフィーナに微笑んではくれない。
何かに気付いたのか、タイランもジークハルトが来た時に、フィーナにお茶出しを頼まなくなった。あの件で、嫌われてしまったことは確定した。
悲しくて、悲しくて、沢山泣いた。泣いて、泣いて、フィーナは思った。自分には研究がある。そして、ここには全てが揃っている。
先ずは図書館で文献を漁ることから始めた。フィーナは、普段なら誰も行かない地下の第三書庫で、ある本を見つけた。
一世紀前、フロランサン時代のその書物は、そっとページをめくらないとバラバラになってしまいそうに傷みが激しかった。恐々、読み進めていくと、《美肌水》、《毛生え薬》のレシピに混じり、そのページはあった。今も昔も、人々の悩みは同じということだろう。
そこに載っていた、惚れ薬の作り方。ハルハラの花を使うというのも、真実みを増した。
少しの胡散臭さを感じながらも、フィーナはもうそれに縋るしかなかったのだ。
一応、書き写してきたレシピを見ながら、研究室で作ってはみたが、完成した綺麗な紅色をしたそれが、本当に効くのか分からない。悩んでいた時に、ジークハルトがその日の午後から来ることが分かった。
「フィナフィナは気にしないで、お仕事してていいからねぇ 」
そう言うタイランに、良い茶葉が手に入ったのでお客様にお出ししたいと、フィーナは申し出た。淹れ方が難しいので、自分で淹れるとも。
タイランが少し考える素振りを見せる。フィーナには返事を貰う少しのこの間がとても長く感じた。
「そうか、じゃあお願いしようかな 」
けれど、タイランがニッコリと笑い、そう言ってくれたのでホッとする。
それから、ジークハルトが訪ねて来るまでの時間、上手くいった時のこと、最悪の事態になってしまった時のこと、色々な妄想に押し潰されそうになり、結局仕事は手につかなかった。
本当にこんなことをしていいのだろうか。でも、やらないと、一生ジークハルト様には振り向いて貰えない。
しかし、そもそも効くかも分からない。効かなかったらどうしよう。そしたら、ずっと嫌われたまま? そんなのは嫌。
そんな葛藤と思いが堂々巡りし、あっという間にジークハルトがやって来る時間になった。
「いらっしゃーい 」
タイランの声に顔を上げると、部屋の入り口にジークハルトが立っていた。
久し振りに見るその姿に、フィーナはまた泣きたくなってしまう。そんなフィーナを見たジークハルトが、少しだけ形の良い眉を顰めた気がした。ズキン……と心臓が痛くなる。
ああ、そんなに私のことが嫌いなんですね。
目の前に突き付けられた気がした。心臓の痛みが増していく。痛くて、痛くて苦しい。好きになってくれなくてもいい。せめて、以前の様に微笑みをくれるなら、それだけでもいい。
フィーナはポケットに入っている小瓶を握りしめた。
お茶を淹れる時は凄く緊張した。紅茶の赤みを帯びた色は、きっと惚れ薬の紅色を隠してくれるだろう。
だけど、どれくらい入れたらいいか分からなくて、悩んで数滴にした。香りはフローラルで不味くは無いだろうが相手は高名なる騎士様だ。違和感を感じて、飲んでくれなければ本末転倒だった。
お盆を運ぶ手が震える。応接室の扉を叩こうとした時、中から声が聞こえた。
「お前、本気か? 」
「本気だ 」
「戦いを勝利に導く天藍石の瞳を持つ英雄様でも、ままならないこともあるんだねぇ 」
「……茶化すな 」
仕事の話だろうか? ジークハルト様は何かを悩んでいるのだろうか? 私を好きになってくれたら、その悩みを私に少しでも分けて貰うことが出来るだろうか?
そう思ったら、勇気が出た。思い切ってドアを叩き、「失礼します 」と言って中に入る。
「ありがとう、フィーナ 」
タイランのお礼に、「いえ 」と言って会釈をした。後めたさから、ジークハルトの顔は見ることができない。
「どうぞ 」と言って、ジークハルトの前に惚れ薬入りのお茶を置くと、彼も「ありがとう 」とお礼を言ってくれた。
タイランの前には普通のお茶を置く。
「今日はフィーナの特別のお茶なんだよね。ジークのためかな? 」
「ちっ、違いますっ! ロートレッド様の為なんかじゃありませんっ! 」
言ってから、しまったと思った。ある意味、真実を突かれて焦ってしまった。タイランの社交辞令をここまで否定することはなかったのに。
恐る恐るジークハルトを見ると、こちらを見て苦笑いしている。
「と、言う事だそうだよ、氷の騎士殿 」
そして、肩を竦めてニヤリと笑ったタイランに「煩い」と一言言って、ジークハルトはテーブルに視線を戻した。
「じゃあ、頂こうかな 」
カチャリと、剣を持つ節高の長い指がティーカップを持つ。香りを吸い込む仕種に、鼓動が速くなる。
「花の様な、良い香りがする 」
……っ!やっぱり気付いた!!
フィーナは、自分の喉がコクンと鳴る音を聞いた。
飲んで、お願い。飲んで。
一見酷薄そうに見える薄い口唇を縁に付けて、ジークハルトがティーカップを傾けた。喉仏が動くのが見える。
ーーー飲んだ!
「えー? 花の匂いなんかしないよ? フィナフィナぁ、これいつものお茶と…… 」
タイランがそう言った時だった。タイランへの言い訳を考えようとしたフィーナの耳に、ガチャンと磁器が乱暴に置かれる音が聞こえた。
振り向くと、ジークハルトが恐い表情をして、立っている。
まさか、薬を盛った事がバレた? 冷たいものが背中を落ちていくのを感じた。
「ロートレッ…… 」
「フィーナ嬢 」
ジークハルトが、ツカツカとフィーナの前まで来て跪く。
翻ったマントが地面に落ちきる前に、ジークハルトは慄くフィーナの手を握って言った。
「私と結婚して頂けませんか? 」
「はあぁっ?! ジーク、お前、何言ってんだ?! 」
タイランの驚いた声が部屋中に響き渡る。けれど、フィーナは別の意味で驚いていた。
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