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「健奏くんは、お父さまが会社員でお母さまは美容師。家庭環境に特に問題は見当たらない子です」
職員室に戻り、谷村先生が児童の家庭調査表を見せてくれた。
私はそれをじっと見て、頭を抱えた。
「なのにどうして突然……髪を伸ばしたんでしょう」
谷村先生は苦笑した。
「別にいいんじゃないですか。髪を伸ばしても」
「良い悪いじゃなくて、『突然』『理由も言わずに』伸ばしたことが気になるんです!」
私は谷村先生に訴えた。
健奏くんが帽子を脱いだ後、となりの席の子が「なんで髪伸ばしてんの?」「いつもオカンが切ってたのに」と理由を問い質した。
けれど彼は、
――別に? 理由とかないし。
としか答えなかった。
そこが気になって仕方がない。
(……もしかしたら)
「髪を伸ばすことで、訴えたいことがあるのかもしれません」
緊張で声が固くなる。谷村先生が「えっ?」と軽く目を見開く。
「たとえば、その……『本当の性別』、とか」
言いながら、心臓の鼓動が大きくなった。
教育学部の講義と、今年の夏休み中に受けた研修で学んだ。
トランスジェンダー。体と心の性別が一致しないこと。
「あるいは……いつも髪を切るお母さまに何かあったとか」
「え? あの、海琴先生?」
「家庭内に不和があっても、子どもって外部に漏らさないものじゃないですか。先生とか、他の大人に言ってもいいのか判断が難しいから!」
原因がどちらにしろ、肝要なのは周囲つまり教師の気づきだ。『いつもと違う』は看過できない。
頭の中でさまざまな知識がぐるぐる回る。
どうしよう。
私は教師として、どうするべき?
「と、とにかく私、健奏くんに話を聞いて――」
「待って待って海琴先生、落ち着いてっ」
気が逸り、教室に戻ろうとする私の服の裾を、谷村先生が引っ張った。
彼女は穏やかに言った。
「どんな理由があるにせよ、あせって踏み込むのはよくないですよ。下手をしたら私たちにも心を閉ざしてしまうわ。ひとまず、様子見でどうかしら?」
なだめるような優しい物言い。というより、聞かん気の強い児童に言い諭すような。
その言葉が耳の奥に、そして心に沁みて、熱く膨らんでいたものが少ししぼむ。
私は、はい、と首肯した。
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