伸びる

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伸びる  まただ、と。  シャワーを浴びながらフリーターは独り言ちる。  まただ。もう何度目だろうか。  新人賞 文芸賞。コンテスト。  また今年も、今月も、今日も。締め切りを落とした。  人生が先に進まない。  小説家になると決めて大学を卒業した時から、なんの結果もなく、小説家志望の下積み生活は年月だけが過ぎて行く。人の気も知らず誕生日は誰に祝われるわけでもないのに律儀に毎年現れる。気が付けばバイト中に膝の関節が痛みだし、腰に不快な痺れを覚える肉体を手に入れていた。  息巻いていた時の夢と希望に満ちていた熱量は、恐れと絶望で構成された焦燥に取って代わられている。内側から脂汗を吹かす気味の悪い熱さが、体の内側へ積もり積もってゆくばかり。  自己嫌悪で重たくなった頭を抱えて風呂から上がる。湿った体で机に座る。書きかけのまま終わった文書ファイル。次はどこへ送りつけてやろうか   机に向かうより先に、晩年床へ体を横たえる。バイトの疲れが抜けない脹脛を擦り、ポキポキと気泡が破裂する音の鳴りやまない足首を回しながら。 態勢を立て直すのだと。休んで体力を回復させるのだ、と言い聞かす。  その回復にも、以前より時間がかかっている事実。気合では片づけきれない眠気や節々の痛みが、無為に過ごした年月がもたらした老いを脳へ知らす。  回復が終わるころには、また日時が過ぎている。つまり、年を取っている。バイトで稼ぐ肉体と、夢を掴もうとする脳味噌が老いている。また一つ衰弱する。  満タンに回復したヒットポイントのゲージの上限は、昨日今日よりまた少し減っているのだろう。夢や希望を勝ち取る能力値が、また老いによって削られていくのだろう。 だめだ。  頭を振って打ちとめても打ち消せない陰鬱な考えがもたらす憂鬱は、より一層に体力をすり減らす。  身を立てたら、いつか恋愛もだなんて。この不細工な面の下で企てていたのは、己に悪酔いしたせい。  身を立ててからにしよう、なにか成果が出たらマッチングアプリにでも登録しようと後回しにして居る間、肌は一層に皺が寄り、黄ばみ、くすみ、乾いた。  心の方は、その比じゃなくくたびれた。――このように、憂鬱を勝手にこさえて自慰行為の様に憂鬱に耽るような心根に育った。  未熟過ぎて人前に出せないと思っていた男は、時間の経過で腐り過ぎて人前に出せない男になっていた。  いつが成熟していた期間だったのだろう。いや、自分に成熟を望むなんて思い上がりで、受精したその日から腐っていたのかもしれない。思えば父は童貞のまま死んでいても、母は処女のまま孤独死しててもおかしくない低所得で低学歴で無趣味で不細工で友達がいない両親だ。自然の摂理で言えば淘汰されるべき個体が、うっかり繁殖してしまったようなミス。  あらゆる命を平等に扱う人間社会が屠殺を禁止したがために生息している弱者男性。  もう潮時か。  これ以上は時々刻々と醜さが増し続ける心と体で蔑まれながら生きるだけだ。  擦れ違う子供たちに「あんな大人になりたくないなぁ」と笑顔を浮かべられて、日々が積み重なって、重なった失敗体験で成功に繋がる道を塞ぐだけだ。 「あんな大人になりたくない」と若さでマウントを取っている無法者連中に、一矢報いるだけ報いて人生を手仕舞いするのも悪くない……。  等々――。  そうやって、どうせ達成しない犯罪の妄想を自分で自分にひけらかしている内に気が済んだらしい。彼の表情は少しずつ落ち着いてきた。  子供の頃から治らないままだった寝小便の染みがこびり付いた布団で腕立て伏せを始めた。二十回を二セット行い、健康的な息切れたで自己肯定感を高めてゆく。道行く背広姿の同年代より引き締まっている肉体は、彼に自身を与えてくれる。  人生の経験値はバカにならないもので、悲観的な未来予想や、楽観的な犯罪計画を抑える術を身に付けつつあった。  自動販売機で買った二百三十円のエナジードリンクを啜る。保険証を失くしたせいで歯医者へ行けなかった間、進行した虫歯に甘い液体が沁みる。  問題は、その先へ進む方法。積極的に取り組むための術を見つけていないことだ。おかげで、完全に頓挫して違う道へ進む挫折は回避しても、壁を超える力を  壁に爪を立てて掻き毟って、突かれて蹲って眠りについてはの繰り返し。  その循環の内に老化だけが進んでゆく。  試してはみた。音楽を摂取する。名言を摂取する。逆に、悲惨な人生を送っていると決めつけられている低所得者達の声を接種する。幸福を不公平にも享受している、”持てる者達”へ一矢報いた犯罪者達の、自然と感情移入する犯行動機を接種する……。  しかし、鬱じみた状態の脳には単なる文字列としか感じられず。文字列を国語として理解することは出来るし、内容も暗記出来た。しかし、効能の滋養強壮効果は一切得られなかった。  なるほど、覚せい剤の需要が絶えぬわけだなと納得するばかり。  どうせ娑婆で楽しいイベントが訪れてくれないのなら、薬剤で楽しい思い出を一ページ増やしてやろう。その楽しさを胸へしまって、青春を思い出を抱えて”社畜”として生きる自称社会人の様に――とまで考えて……。  まただ。  また多動的に物事を考えすぎた、脱線していると筆を止める。  バイト中はあれ程に満ちていたヤル気も、いざ家に辿り着けば跡形もなく消えているのが常。バイトに向かう電車の中では、地元にいる中学校時代の友人たちの顔、疎遠になった昔のバイト先にいた知人達の顔が思い浮かんでは『このままじゃいけない』という焦燥感と、『帰ったら急いで原稿の執筆にとりかからないと』という、やる気を与えてくれていたのに。  いざ、やる気を使うべき状況の今は違う。  彼らの顔を思い返しても、ただひたすらに今の自分の社会的な地位の低さに対する自己嫌悪を催すばかりで、ただひたすらに気分が悪くなってヤル気が失せていくだけ。  肝心な時、実際に行動を起こすときにはモチベーションを奪うだなんて。だったら、バイト中も化けて出てくるなよ。  成人した時と何ら変わらない三十歳である自分への嫌悪感で、溜息がとまらず頭が痛くなって仕方がない。  一文字も書かない間に、再び布団に横になる。  想えば、昔から頑張ったことは全てダメだった。  通っていた音楽教室は音感がなさすぎて、最後まで下手だったらしい。『らしい』というのは、彼にとって何か上手で下手なのかまるで実感できなかったからである。良い演奏を手本に聞かされても、何が良いのかサッパリ実感としてわからず何も実を結ばなかった。  所属していた卓球部は、運動神経が悪すぎて三年生になってようやく同級生が一年目に覚えた技術を習得できるレベルだった。  受験勉強に明け暮れて青春の思い出など何一つない上に、肝心の受験もダメだった。とにかく物覚えが悪く、授業中に理解できない自分への嫌気が溢れだして貧乏ゆすりと舌打ちを繰り返し、涙を浮かべて肩で息する自分をクラスメイトも教師を忌避していた。  家に帰れば、息子が夫と同じ多動性障害を持っている事実に、産み手として著しい劣等感と苛立ちを暴発させている母親との親子関係を、日々改善させることに失敗していた。  だから、これからも。  二度あることは三度あるから、幾度とあった努力が実らない、なんなら努力も出来ない展開はまたあるだろう。  だって、それが自分の性根なのだから。  幼稚園に通っていた頃の自分は、与えられた運動や工作の課題を一切やらない子供だった。保育士に話しかけられても、返事をするという発想がない子だった。  それが、俺の生まれ持った姿。つまり、本性。  勉強、学習、反省、工夫、努力……あらゆる誤魔化しに手を染める前のプレーンな自分自身。それが、あんなザマだったんだ。そんな汚い本性の人間に努力が報われるハッピーエンドなんて訪れたら、世界は悪人が報われる不公平な世界ということになってしまう。報われなくて当然だ。ざまぁみろ、生まれついての悪党め。間違って人間に生まれた報いを受けるがいい。  痛快な結論で少しリラックスできた彼は、グッと体を伸ばして深呼吸する。  ありがたいことに、二十代後半を迎えて新卒採用の対象からすっかり外れた頃には母親も諦めがついたらしい。乾いた笑みを浮かべた母と温和に会話できる小康状態を勝ち取れた。  あの母は、あと何年生きるだろうか。父は毎晩スナック菓子と炭酸飲料を食い散らかして動画サイトに没頭する生活を続けているから、そう長くはないだろう――。  生理的に受け付けない人間が地球上から消える、という喜ばしい事実が、一段と砂嵐に塗れた脳を静まらせた。  すぅ、と風が吹き抜けるように 濁流に乗って 混雑していた感情が少しずつ整理されていく。  埋もれていた遺産が砂を掃いて発掘される様に、頭の中に物語が現れていく。 キャラクターたちが確かに会話に花を咲かせている。   そうだ。   絶望の中から這い上がる主人公こそ、俺が求めていた主人公だ。表現に値するヒーローだ。今まで俺が自慰行為的に思い浮かべていた憂鬱を、打ち砕いてくれる英雄を描けば、きっと世界の憂鬱に溺れている人達へ勇気を与えられる。だから――  もう一日、頑張ってみようよ。だなんて。  爽やかな笑顔を浮かべて、彼は三三歳の肉体を、体臭がしみ込んだ茶色い晩年床から持ち上げた。  この前向きな学びや悟りが、また一日、彼の”下積み”を伸ばすのだ。  そして彼は、熱い想いを胸にパソコンにへ向かう。  すると、再び砂時計を立てたように脳内が再び濁流で混雑してゆく。机の上に広げた文房具、パソコンの画面から発されるハッスルブルーライトが、瞬く間に脳味噌をくらましてゆく。発掘されていたアイデアへ、再び大量の砂粒で埋もれて行く気分だ。   血圧で 冴えない脳味噌は何ら文章を紡がず、単語の怒涛が押し寄せて物語の筋書きを圧し潰してゆく。  このままじゃいけない、とインスピレーションを求めて再生した音楽を切っ掛けに、多動的な脳味噌は一層に火花を散らす。  布団で発起した一念を、脳味噌は発想の殺到で擂り潰した。  結局手元には、空白と誤字脱字だらけのワードファイルが数キロバイト分残っただけである。  それに気が付く頃――具体的には翌日のバイトに向かう電車の中――まで、漠然とした夢想に照らされた泡沫へ酔い痴れる。  そして伸びる。こうして伸びる。  止めどなく。果てしなく。当て所なく。だらしなく。恥も外聞もなく。  腐乱死体となってアパートの大家へ多大な迷惑をかけることになる命日へ向かって、生きる道が狭まりながら伸びてゆく。  今や霧消して残り香しか存在しない夢と希望を浅ましくも嗅ぎつけて、人生の締め切りを命日まで伸ばし続けて死ぬ。
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