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その天秤の傾きは。
「ねえ、今度の日曜だけど」
「金曜土曜と出張なんだ。日曜はゆっくりしたい」
意を決して出した言葉は享一郎にやんわりと遮られた。
それを言われてしまったらもう黙るしかない。
「……佐和の実家にはまた行く機会をつくるから。ちゃんと考えてるよ」
ぽん、と頭におかれた享一郎の手の重さを信じるしかなくなる。
もう、ずっとずっとそう言って。
引き延ばされているけれど。
*
「佐和先輩、そこ漢字が間違ってますよ」
「へあ? あ、ほんとだ。ありがと」
「どうしたんですか、めずらし」
へへ、と頬をかきながら私は何も言えなかった。
漢字なんかを間違えているということは、内容の間違いもありうるわけで。
ああ、まずいな。見直す、か。どうせ享一郎は出張で帰らないって言ってたし。
「残業してくよ、私」
呟きを聞いた隣の席の後輩、多美が目を見張った。
「佐和先輩、すっごいやる気ですね。私は帰りますけど。デートだし」
残業仲間にしないでください、と防衛線をはるような後輩に手を振ってみせる。
大丈夫、一緒にやれなんて言わないし。
「いいよーもちろん。ちょっとゆっくりやってく。金曜だし」
多美があきれたように笑った。
「先輩、『金曜だから』早く帰るんですよ、普通は」
「んん、んー。そだね。それが普通か」
ははっと乾いた声で笑ってしまう。
普通。
普通ってなんだろ。
普通の恋人同士ってなんだろう。
*
終業時刻をすぎれば、かかってくる電話も少なくなる。
一息ついて思い切り椅子にもたれ伸びをする。
ふううっとため息なのかやる気なのかわからない息が漏れる。
机に置いた携帯電話の画面は暗いままだ。
もし、享一郎から連絡があれば。もちろんすぐに帰る気なのに。
「いつもいつもさ。日曜はゆっくりしたいって言って」
実家の親には、享一郎は忙しいからって言い訳のように何度も言っている。そろそろ親も享一郎という人間が私の妄想の中の人間なのかと疑っているかもしれない。
「じゃあさ、時間をつくってくれればいいじゃない?」
無理矢理にでも、時間をつくるということ。
時間をつくりだす、ということ。
それはそれなりの情熱がなければ無理なことだ。
それはもう、大人だからわかっていることだけれど。
*
「先輩、差し入れ」
残業2時間が過ぎたころ。
帰ったと思っていた多美が何故か戻ってきた。
目がすわっているし、頬が膨らんでいる。
「どしたの、めずらし」
「さっきのお返しですか?」
低い声で言い、多美はずずいっと私の机に紙袋を差し出してきた。
そっとのぞくと結構おいしくて有名なシュークリームの小箱が何個も入っている。通常サイズのシュークリームと比べて半分より小さいサイズ。食べやすくておいしくて。差し入れとしてとてもありがたい。
思わず顔がほころんだ。
「わお。嬉しい。コーヒー飲みに行く?」
「おごってください」
「もっちろん、おっけー」
これは何かあったなデートって言ってたはず、とは口に出さないけれど。
多美からうけとった紙袋を右手に、反対の左手で携帯電話をもつ。
そして多美を促して休憩室に向かった。
*
「彼と約束してたんですけど。どうしてか、待ち合わせに来なくて」
「へえ?」
休憩室のソファにふたりで座る。テーブルにシュークリームの箱を取り出して、開けてみる。ふわりとクリームの香りがして、急におなかがすいてくる。1箱に4つも入ったものを3箱も差し入れてくれて、味は3種類。カスタード、イチゴ、チョコ。
私はコーヒーを一口すすった。
今日はブラックの気分。目の前のシュークリームはきっと甘い。
多美はミルクも砂糖もたっぷり入れたコーヒーをぐびぐびと飲んだ。
そしてコーヒーの紙コップをぐるぐると手の中で回している。
「どうしてだと思います?」
「え?」
「どうして、彼は来なかったんだと、思いますか」
どうしてだろう。
──享一郎が一緒に実家に行ってくれないのは、どうしてなんだろう。ふっとそんな考えが頭に浮かぶ。
「あのね、佐和先輩。彼って」
はっとして、多美の言葉に気持ちを戻す。
多美は小ぶりのシュークリームをひとつつまんでぱくりと口に放り込んだ。おいしい、と呟きコーヒーをまた口にする。
すっかり口の中が空になったころ、多美は口を開いた。
「彼って、私が絶対に彼を嫌いになるはずがないって思ってるんですよ」
「えっと、どういうこと?」
「たとえば天秤があるとして」
「え?」
話がぴゅんと飛んでいく。私はうううん?と唸りながら多美の思考についていく。
コーヒーの紙コップをテーブルに置き、多美は箱からシュークリームをふたつ、手に取った。右手と左手にひとつずつ。
「このふたつをひとつずつ、天秤に置いたんです。はじめは」
「てんびん」
「そうです。愛情の天秤です」
「愛情の」
大きく頷き多美はひとつのシュークリームをコーヒーの中に落とした。落とす、ふりをした。
「ああああ!」
「──驚きすぎです。先輩。落としてません」
はい、と私の口にそのうちの1つのシュークリームを突っ込んでくる。
よかった。
私の分がなくなるかと思った。
多美ももう1つのシュークリームを自分の口に入れた。
ふたりで無言でもぐもぐと甘いクリームを噛みしめる。
おいしい。でも甘い。ブラックにしてよかった。
「もしシュークリームをね、コーヒーに落としたらどうなります?」
「ええ? 溶ける、とか?」
首を横に振って多美がこたえた。
「違います。重くなります」
真顔で言って、多美は黙り込んだ。
「重く、なるの?」
「そう。そして、まずくなります」
「まずく?」
「だってそうでしょ。シュークリームはそれだけで完成してるんです。それなのにコーヒーに浸かってしまったらまずくなるに決まってる」
語気を荒げて多美は手を握りしめた。
「おいしくなるっていう可能性も、あるかも、よ?」
「だって先輩さっき大声でああああって叫んだでしょ? まずくなるって思ったんでしょ」
「ぐ」
たしかに。
たしかに叫んだ。そうだ。『まずい、私のシュークリームが!』って叫んだ気がする。
言葉を詰まらせた私に、多美が静かに話し出す。
「愛情ってそうなんだと思うんです」
「え?」
「愛情って、最初に天秤に乗せた時点で完成されてる気がするんです。それがふたりにとって普通のカタチなんです、きっと。なのに好きが大きくなって愛情が重たくなって。私の愛情のカタチだけがまずくなってしまったんだと思うんです。だからきっと彼はもう私のシュークリームがまずくて食べたくもないんだろうなって」
仕事をさらりとこなす普段の多美からは考えられない言葉に私は驚いた。
そんなこと考えていたんだ。
「それでこんなふうに、別れ話ものびのびにされて。馬鹿みたいに別れ話を待ってるだけの女が完成するわけです」
口を苦くゆがませて、多美が自虐的に呟いた。
「そんなこと、な」
「そんなことあるんです。私、彼が別れたいんだろうなってわかってるのに言いだしたくなくて。ほんとに好きで愛してたら、彼が別れたいって思ってるみたいなら別れてあげるほうがいいんだろうなって、思うんですけどでも。ああ。──ほんとに好きじゃないのかな。彼の気持ちが離れていくことが許せない気持ちって、つまるところは愛じゃないのかな。ただの、エゴかな」
最後は誰に話すでもなく、独り言のようだった。
「多分、シュークリームを天秤に乗せるときに、同じタイミングで同じ大きさのものをひとつずつ増やして乗せられたらよかったんだと思うんです。同じように重くなって、同じように愛が深くなればよかったんですけど──」
それきり多美は黙ってしまった。
愛が。
深ければ深いほど、相手にとっていいことだと思っていたのに。
多美はまるで違うことを考えていて。
──享一郎はどうなんだろう。
私のシュークリームはもうまずくて食べたくないのだろうか。
『ほんとに好きで愛していたら、別れてあげるほうがいい』
そうなのかな。
もう自由にしてあげたほうが、いいんだろうか。
享一郎が頭にふわりと乗せてくれた手の重さをふっと思い出す。
私はあの手を振り払いたいとは思わないけれど。
享一郎はどうだろう。
私たちの天秤はきっと私のほうに随分傾いている。
*
3箱もあったシュークリームをふたりで食べ尽くしたころ。
多美は少し涙目になっていた。それでも何か食べられるんだから、まだ大丈夫、だと思った。
「先輩、私、別れよっかな。今日、ずっと待つって言ったんだけど全く連絡もなくて。ほら」
携帯電話のLINEの画面を私にみせてくれる。
通話も文字も、多美のほうからしたきりで終っていた。
「私、別れるの怖くてのばしのばしにしてきたけど、自分でシュークリームの話をしてたら馬鹿みたいだなって。思えてきて。こんなふうに画面を開くばっかりで。待つばっかりで。私の愛なんてまずくなるばっかりで」
うっすらと涙目だったのに本当に涙が出てきて、鼻も赤くなっている。ずずっと鼻をすする。
「もったいない。もったいないよ」
私は強く声を出した。
「おいしいはずなのに。おいしく感じてもらえないなら、ほんとにもったいないよ。もう、天秤からおろしてしまっていいんだと思う」
*
日曜の午後。
享一郎は私の部屋で過ごしていた。
金曜と土曜で出張に行ってきて、宣言通り日曜はのんびりと。
なんだかんだ言っても私の部屋には来てくれる。
ただ、実家にいくのだけは延ばし延ばしにされているだけなのだ。
要するに、覚悟が足りないのか。
「ねえ、シュークリーム、好き?」
「ん? 好きだよ」
享一郎はソファに座って本を読みながら言った。
「じゃあ、今度の日曜は?」
「えっと、実家?」
本から視線をあげたけれど、そこで言葉を詰まらせる。
ああ、もう。どうしても、決めてくれない。
どれだけ引き延ばされてしまうのだろう。
でも。
享一郎のとまどった顔を見たら、それを言えない。
「今度の日曜、シュークリーム買ってくるから、一緒に食べよ?」
きっと『実家が』と言わない私の言葉に安心したのだろう。
享一郎は、ほうっと息を吐いた。
頬を緩めて笑顔になる。
今でならここで、ずきっと胸が痛くなったんだけれど。
──今日は私も一緒にほっとしていた。
「おいしい食べかた、後輩の子に聞いたんだ」
*
こんなふうに。
私も結局はこたえを延ばし延ばしにしている。
はっきりと拒否されなくて、安心している。
ふたりのこれからについて。
多美のように決められず、生ぬるい部屋でふたりの時間を延ばし延ばしに続けてもいいかもしれないと。
安心してしまってる。
とりあえず。
シュークリームを一緒に食べてみようと思う。
天秤に乗せるのは。
私たちの天秤に、乗せるのは。
ううん、ちがう。
私のほうに傾いている天秤。
その天秤から、おろすのは。
なんなのだろうかと、考えてみる。
おろしたほうがいいのか、と。
こたえをのばした先に、何があるのかと。
考えてみようと思う。
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