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放課後を迎えても幸樹は席を立たないまま、一時間が過ぎていた。
日常的に気が乗らない時には付き合いの悪い幸樹と友人を続けてくれている田島達も、今日は幸樹を放っておくことに決めて遊びに出ている。
腰が椅子から離れないのは、昼休みの青梅の言葉が頭をぐるぐる回っているせいだった。午後の授業も殆ど右から左。何の科目だったかすら覚えているか怪しい状態。
「花菱さん、どうかされたんですか?」
ぼーっとしていた所に声がかけられた。今日一日で覚えた丁寧な口調の声音。
誰かを把握しつつも、不用意に視線を向けて幸樹は後悔する。
杉原が周囲を見回しながら立っていた。
「教室、誰も残ってませんよ?」
「よくあることだから」
視線を前に戻して投げやりに幸樹は答える。適当な返事に興味を無くしてくれる、ということはなく杉原は幸樹の前の席に座って話をする姿勢を見せて来る。
「……何?」
「青梅さんにお昼に言われたこと、気にされてるんですか?」
「嫌いだって?」
「心が見えなくたって、心の機微は悟れるという話です」
杉原が幸樹を覗き込むように見て来る。
「全く同意でした。そうやって人は空気を読んだり、配慮したりして、慮って人類は今日までやってきた訳ですから。逆もまた然りではありますけど」
杉原は続ける。
「でも人並みにできることと割り切ってしまうのは、不足だと思います。咲さんも皆の前ではあえて語らなかったことがあると思うんです」
だって、と続いた言葉は慮外から幸樹を殴りつける。
「他の人たちよりも心に敏感で、必要以上に考えちゃいますよね? 心花視を持つ私たちは。見えないが故に目を背けられる他人の心と常に向き合わなければならないんですから」
「……何を--いや、杉原は心花視持ちなんだな。そういうのは、近しい間柄でカミングアウトするものだって価値観じゃなかったか? 青梅との会話で主義を変えたのか?」
「花菱さんって意外と早口なんですね」
「話を振ってきたのは杉原だろ、はぐらかすな」
素直な感想だったんですが、と杉原が残念そうに零してから応じる。
「主義は変えてませんよ。私は私が望んだ人には打ち明ける派です」
「なら杉原の打ち明け話は真摯に受け止める。大変だったな、苦労も多かったんだろう」
「ウチは親が微妙だったんですよね。叔父、叔母に救われました。知ってます? 持ってる人が、初めてその力の否定を体験するのは家族からが多いらしいですよ」
幸樹が雑に放言しているのに、杉原は気にも留めずに応じた。その対応に、幸樹はもはや諦めを滲ませる。
「それで引っ越してきたのか?」
「いろいろと法的な手続きも済ませて、叔父叔母のところでしばらくはMFCの方のカウンセリングを受けて、ようやく今という感じですね」
頷いた杉原が、ところで、と話題転換。
「花菱さんの場合はどんな感じでした?」
「心花視に関する苦労話なんてあるはずないだろ。俺は持ってない側だ」
「クラスで私を見ることを避けたのは二人。青梅さんと花菱さんだけです。痛みを伴うような顔をするんですよね。叔母さんと同じです」
すっと両手で顔を抑えて、杉原が幸樹の両目を覗き込む。
「どんな風に見えますか、私の心は」
杉原が問う。
幸樹の胸中を占めるのは、畏怖だ。
天を突くように伸びる巨木。千年を生き抜いたような揺るぎない大樹。彼女の心にあるのは花ではなく、芯を通し太く真っすぐに伸びた樹木だった。
太い幹には、いくつもいくつも斧で切りつけたような鋭い傷跡がある。些細な傷ならば見ぬふりもできるが、ここまで傷だらけでは嫌でも目に付いてしまう。
傷付いた心というのは、そうなるに至る過程を想起させる。ゆえに見ることを忌避してしまうのは自然な反応だ。だが幸樹にとっての畏れはそれではない。
それだけの傷をものともせずに揺らがないと確信させる天に伸びる巨木。それを宿すに至る過程、宿しえた心の在り様こそを畏怖をする。
「……傷だらけなのに、揺るぎない大樹」
ぽつりと吐露した幸樹に、杉原が嬉しそうに頷いた。
「MFCの先生も似たような感じだったので、同じって知ってうれしかったんですよ。人から見て気分が良いものではない、というのも理解はしているので咲さんには申し訳なく思いましたが。不思議ですよね、メンタルフラワーって誰が見ても同じ結果になるんですよ」
饒舌な杉原を無視して、幸樹は目的を問い質す。
「俺が心花視持ちだとして、何で俺に絡んでくるんだ。というか、手を放してくれ」
解放されて即座に幸樹は杉原から視線を逸らした。その様子に苦笑しながら、杉原が尋ねる。
「心花視を持っている人に共通して言えることがあるの知ってます?」
「心を植物の形で見ることが出来る」
「それは前提ですよ。望むんです。心に花があることを」
「……世界に花が満ちますように」
大昔に元凶の花をばら撒いた人達が添えた言葉。心花視を有する人は、誰もがその衝動を抱えているとでも言うのだろうか。
「例えば咲さん。彼女のご友人を見ればその嗜好はわかりますよね。小花で溢れる心を好んでいます。花菱さんも気づいていたのではないですか?
彼女の今日のお話からも伺えました。見えてしまうからこそ、綺麗な花だけを見ていたい。だから醜い部分が露呈しないように手入れも欠かさない。本当は仔細に観察すれば心の綻びは知れるはずですが、それも厭い心花視を使わずに友人の心をケアしている。その徹底ぶりは心底から凄いと思いました」
「凄いってそういう意味だったのか、随分な言い方だな」
「咲さんが花菱さんを嫌う、見ることを避ける理由は、まさにそこにあると思いますが」
気づいていて、あえて無視していた事実を、杉原はずけずけと掘り起こす。
「心花視は自分の心だけは見れないですけれど、他者の反応や傾向から推測できてしまいますよね。花菱さんの心に、花が満ちていないことは明らかでしょう」
言い切られる。もはや、この配慮を知らない女にであれば、ついぞ青梅に聞くことが出来なかった言葉を聞けるのではないかと、幸樹は考えてしまう。
「……俺の心は、どんな姿をしている」
「先に私の質問に答えてくれたら、お答えします」
「何だ」
「花菱さんが心花視を通して見た最高の光景を教えてください」
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