真に無償か

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 僕は大学の図書館の一角にある、大学院生用資料スペースに一人で閉じこもり文献を探していた。次のゼミで報告できる進捗を出すためには僕の研究テーマについて書かれた文献を見つけて、発表用の資料をまとめないと。  本の配置的に考えると、書架の上の方にある本を見る価値がありそうだ。背伸びをしてみたけれど、届かない。大学院生用資料スペースには踏み台がなかったので、一旦、そこを出て、踏み台を持って戻ってきた。大学院生はみんな背が高いとでも思っているのだろうか?  踏み台に登り、古い装丁の本を取り出して表題紙を見た。予想通り、研究に使えそうな本だった。  その本を抱えて踏み台を降りようとした時、その本の隣に小冊子とでもいうべき薄い本があることにも気がついたので、僕はついでにそれも手にとって、踏み台を降りた。  近くの机に2冊の本を置いて、妙なことに気がついた。この小冊子、読めない。  表紙には不思議な記号とも文字とも判断できないものが描かれているばかりで意味不明だ。僕は自分で言うのもなんだが、哲学・思想を研究している者の端くれとして、ヨーロッパのメジャーな言語は数カ国語読めるけど、そのどれでもない。アジアなど他の地域の言語の可能性も考えたが、ヨーロッパの哲学の本が並ぶ書架にアジアなどについて書かれた本が混入することは考えにくい。というより、この本、図書館のものなのに請求記号がついていない。 「なんだこれ。」 僕はそう呟きながら、その本を開こうとした。  すると、それは、本のように冊子体に綴じられているものではなく、パンフレットのように折られているものであることが解ったので、それを机の上に広げた。一枚の大きな紙になったその中央には、大きく魔法陣のように内部に幾何学模様を持つ円が描かれ、その周辺には表紙にあったような記号とも文字とも判断できないものが朱色でたくさん描かれている。 「まるで、悪魔召喚の儀式に使う道具のようだな。」 そう呟いた瞬間、幾何学模様を持つ円などが鮮やかな赤色に光輝き、あたりに火山地帯のような硫黄の匂いと煙が立ち込めた。それが薄くなり始めたころ、紙の方から声がした。 「私をお呼びになったのは貴方様でいらっしゃいますか。」  びっくりして立ち上がり、そちらを見ると、円の中心に、羽とツノと尻尾を生やした、人の形をした、やや小柄な赤い皮膚を持つものが浮かんでいた。 「もしかして、悪魔?」 「だって、貴方様がお呼びになったんでしょう。この魔法陣に向かって『悪魔召喚』とおっしゃったんじゃありませんか。」 確かに、「悪魔召喚」と言ってはしまったが、本気で悪魔を呼ぼうと思って言ったわけではない。 「実は手違いで呼んでしまったんです。申し訳ないですが、帰ってくれませんか。」 「そんなはずはありませんよ。心に秘めた貴方様の願いを叶えましょう。」 「いやですよ、悪魔と取引なんて。というより、なんで、こんな物が図書館にあるんだ?」 「私を呼び出す紙は300年ほど前にとある黒魔術教団が作った物ですが、その教団は教義をめぐる内部抗争で壊滅しました。その際に教団の資産は外部に流出したのです。その時、私を呼び出す紙も教団の外に出ました。欧州の好事家の間を転々としましたが、最後の持ち主が亡くなった時、私を呼び出す紙は古本屋に売られました。そこを、留学に来たこの大学ーー厳密には前身大学ですがーーの講師に買われたのです。何らかの思想の書物だと思ったのですよ。その講師は後に退官する時に書籍のコレクションを寄贈したので、私を呼び出す紙もここにあるというわけです。もう100年以上前の話です。」 「このような物がここにある理由はわかりました。でも、なんで図書館のものなのに、請求記号がついていないんですか?」 「つけられないんですよ。私を呼び出す紙を認知できるのは、強い願いを持つ者だけですので。全員に存在を認知できない本に請求記号を付けることはできませんし、ましてや、目録に登録することはできません。実際、私を呼び出す紙が見えるか見えないかで司書が喧嘩をするのは、何度も聞いてきました。」 「今までに、何人の願いを叶えてきたんですか?」 「百人以上は。黒魔術教団時代はまぁまぁ頻繁に叶えてきたのでね。ただ、それ以降、つまり、好事家の間を回っていた間はほとんど叶えていないですね。みんな、私を呼ぶには長ったらしい秘伝の呪文を一字一句間違えずに唱えなければならないとか思っていたらしい。私は形式ではなく、心に反応する悪魔です。その国のことばで一言『悪魔召喚』と言えば出てきてやったのに。もちろん、ここの講師に買われてからはゼロですよ。彼は私を呼び出す紙を思想書の類だと思い込んでいましたので。図書館に寄贈されてからは、蔵書点検の際に一部の司書に私を呼び出す紙の存在が確認されることはありましたが、当然、私が呼び出されることはありませんでしたから。」 「話はわかりました。でも、僕は本当に願いなんてないんです。どうか、お引き取りをしていただけませんか。」 「そんなはずはありませんよ、高橋様。えぇ、お名前はわかりますよ、悪魔ですから。貴方様は頭脳明晰でこうして優秀な大学にも入っている。スポーツも得意だ。顔も悪くない。でも、一点気にしていることがあるはずです。」 「そ、そんなことは……。」 「私を呼ぶ紙を取るのに踏み台を使いましたね。身長が低いのを気になさっているとお見受けしますがねぇ。」 これは、事実だった。僕は身長が165cmに満たない。確かに、これは最大のコンプレックスだった。 「私に願いを言うのです。あっという間に脚を伸ばして高身長にしてあげましょう。」 「とんでもない! 悪魔と取引なんてしたら一生を棒に振ってしまう!」 「通常ならば余生の成功を代償として頂くところですが、長きにわたる封印から解放してくだったお礼として、高橋様のお願いは特別に無償で叶えましょう。」 「じゃあ、死後、地獄に落とされるんだ。」 「そのようなこともございません。」 「じゃあ、伸ばした脚が欠陥品なんだ。ずっと痛かったり、病気だったり、すぐ折れたり。」 「痛みはなく、常に健康で、あらゆる衝撃やダメージに耐える頑丈な脚でございます。」 「じゃあ、思ったように動かないとか。」 「元から付いていたかのように、馴染んで動く脚でございます。」 「本当にそんな上手い話があるのか?」 「えぇ、私を信じてください。今回は無償で願いを叶えます。」 僕は考えた。これは上手い話かもしれない。上手い話には裏があると言うが、考えられる裏はふさいである。僕は高鳴る鼓動を感じながら悪魔に向かっていった。 「脚を伸ばして高身長にしてください!」 「お安い御用です!」 次の瞬間、僕は目線が著しく上がっているのに気がついた。踏み台を使わなくても、書架の一番上が見える! 恐らく30cmぐらいは背が高くなっているだろう。見ると、脚と腕が長くなっており、モデルのような体型になっていた。動かしてみると、多少の戸惑いは感じるが、思ったよりも違和感はない。悪魔が話しかけてくる。 「いかがでしょうか。もちろん、高橋様がお持ちのお洋服も全てサイズを変更しておきました。また、これまでに高橋様がお会いになってきた方々の記憶も書き換えておきましたので、今、お会いになっても戸惑われることはございません。そして、腕も脚と同様に伸ばしておきましたよ。人間の体は、腕を左右に広げた時の長さが身長とほぼ同じ長さになりますので、脚だけ伸ばすとバランスが悪くなるのですよ。」 「完璧ですよ! ありがとうございます!」 「私も、久々に封印から解放されて楽しかったですよ。では、また強い願いが生じましたら、その時お会いしましょう。」 悪魔はそう言うと、紙に描かれた円の中心へと消えていった。それと同時に、僕はその紙が見えなくなった。驚いて、その紙があったあたりを触ってみたが何も触ることができなかった。机の上には、古いヨーロッパの哲学書が1冊置いてあるだけだった。  最大のコンプレックスが消えた僕は、様々なことに自信を持って挑戦できるようになった。そのためか、研究活動もアルバイトもうまくこなせるようになった。また、研究活動が認められて、研究者として大学に残ることもできた。更には、生まれて初めて恋人もできた。悪魔との取引と聞くと怖いばかりのイメージだったが、こんなにいいことが続くなんて。あの時、あの紙を見つけられたのは幸運だったなぁ。今後も自信をもって歩んでいこう。 ※※※ 「先輩、2号炉の高橋様のご遺体なんですけど、妙なことが起きてるんです!」 「何だい? 妙なことって。」 「腕と脚が全く燃えてないんです! 他の部位は燃えてるのに。」 「えっ⁉︎」 新人の報告を受けた火葬技師が2号炉を確認すると、確かに、腕と脚が全く燃えておらず生前のまま残ってしまっている遺体があった。高橋氏は、背が高いこと以外は何の変哲のない89歳の老人である。義肢装具を着けているなどとは聞いていないし、仮にそれらを外し忘れていたとしてもこうはならないだろう。  彼らは、故人の脚が、学生時代の悪魔との取引によって「あらゆる衝撃やダメージに耐える頑丈な脚」になっていたため耐火性を有しており、「腕も脚と同様に」なっていることは知る由もなかったのである。  火葬技師達は腕と脚を骨にしようと努力をしたが、全て焼け石に水の徒労に終わった。このため、高橋家の告別式は終了予定時刻を大幅に過ぎても終わらず、腕と脚が完全なかたちで残るという想定外の事態に、遺族は頭を抱えるのであった。
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