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台風が近づく。ときどき突風にあおられながら、渡辺丈二は母から頼まれた神戸牛を買ってきた。日曜日の昼にステーキなどめったに体験できないし、ヒトクチポテトを内緒で買うという悪戯も忘れていない。
「お母さん、買ってきたよー」
ドアを開けて玄関で合図する丈二は中学校一年生。小学生気分が抜けない6月。買い物袋からヒトクチポテトは抜き取って、左手で後ろに隠す。
ベランダから、のんびりしたような声。
「はーい。ちょっと待ってねー」
母の渡辺由紀恵だ。親の威厳は感じない。それでも、素直になれる部分はある。
キッチンへ現れたエプロン姿の由紀恵。40歳になったはずだけれど、20代のつもりらしい。後ろへ束ねた髪で、丸っこい顔の輪郭がふくよか感を与えるけれど、体形は細身だ。父の丸い体形や老け込んだ顔とは対照的で同じ年齢にしては「若い」と丈二も思う。
由紀恵は丈二から買い物袋を受け取ると、友達にでも話すようにする。
「冷蔵庫に入れとこうね。父さんのいないときの楽しみだー」
父は今日も釣りらしい。海は荒れていないかと心配だけれど、由紀恵は笑顔で送り出していた。おおらかなのか、行き先の天候に思い至らないのか、丈二も、由紀恵に母として物足りなさを感じる。
(母親というのは、お母さんみたいなものかなー。違う気もする)
泣いたり怒ったりしたのを見たこともない、いつも笑顔だ。だから悪戯も仕掛けるけれど、肩透かし。口角のあがるスマイルで、父にも「かていえんまんだね」と口癖のように言う。丈二が、家庭円満だと意味を知ったのは小学校5年生のころだ。
由紀恵が天然ボケなのかとも思う丈二。親と口喧嘩した、とか、母がうるさい、という友達の話題が羨ましくもなる。確かに、親の不満を並べるけれど、仲が良いのだ。
(お母さんは、きっとロボットだよ)
由紀恵に感情を感じられない。酷い言葉をいったりするのとは違う意味で、どこか醒めているのが反抗期の丈二。
最近は毎週、父が朝から出かける。
「おか釣りしないでよー」
手を大袈裟に振りながら玄関で見送る由紀恵。
「俺はそんなことしない」
市役所勤めの父は、いつも真面目な顔で言っていた。夫婦のことは息子の丈二も分からない。おか釣りの別にある意味を丈二はまだ知らない。
「何か買った?」
由紀恵がお釣りを確かめながら訊く。お菓子の袋は隠しながら首を横に振り、リビングのソファーへ座った。
「飴でしょ。ステーキが食べられなくなっちゃうよ」
「食べるよ。ヒトクチポテトだし。あっ、しまった」
嘘をつかないのは約束だけれど、丈二も根っからの正直者。
「だから太るのよ、父さんのように。大人になったら倍返しね」
「いいよ。お小遣いは下げないで」
「下げたらもっと、ずるするでしょ」
先を見通していた。由紀恵は何かを計算して、天然ボケを演じているのかもしれない。
「もうしないよ」
「お買い物を任せた4年生のときから聞いてるけど」
由紀恵は言うと軽い笑い方。ぶりっ子笑いと呼ばれていたものだ。そのあと、冷蔵庫を開けるような音が響く。
ベランダの方から突風が舞い込みお菓子の袋を騒がせる。由紀恵はガラス戸を閉め忘れたらしい。洗濯物が干されていたけれど、ズボンが飛ばされて、流れる雲へ吸い込まれるように外へ。
「ちゃんと挟んでないんだ。お母さんらしいや」
呟きながらヒトクチポテトを口に運ぶ。小ぶりだが、ちょっと硬い。
「丈二ちゃん!」
由紀恵が切羽詰またように叫ぶ。
「はい。俺ここ」
ソファーに座り、食べているのを口の頬側に寄せて答える。ちゃん、からは卒業して欲しい。
由紀恵が大股でベランダへ走る。束ねた髪が舞う。手にした銀色のお盆からコップが転がり落ちた。翻るエプロンの裾にコップのコーラがかかり、絨毯へ泡を作り染み込む。
ベランダからズボンが、ヒラヒラ、落ちてゆくのが見えた。
「落ちたあー。じょおじいー」
由紀恵は叫びながら玄関へ走る。
「落ちた? ズボンだが。もしかしてベランダから、俺が落ちたと思ってないか」
それなら辻褄があう。すばやく後を追う丈二。由紀恵を落ち着かさなければならない。
由紀恵はドアも半ばに開けたまま、お盆を左手で振りながら出てゆく。
「あれがお母さんか」
丈二はキッチンテーブルへ置いてあるカギをポケットに入れて、玄関から出た。
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