3人が本棚に入れています
本棚に追加
2
ここは3階で両方に階段が設けられている。右の近い方へ走る由紀恵は裸足のままだ。
「お母さん、ちょっと待って」
追う丈二も裸足だ。2メートルほどの距離が開く。
前方のドアが開き、飛び出したマスクと黒メガネ姿の人物。怪しい。流行り病も峠をすぎて、もうマスクはしなくていいはずだ。空き巣だと丈二は予想した。
「しまった」
空き巣が大きな声で驚くように喋り、包丁を見せるように向ける。
由紀恵は両手でお盆んを持ち、高々と上げる。
「邪魔なの!」
振り下ろされたお盆。金属がぶつかる音、お盆が太鼓のように余韻を残して鳴る。
空き巣の手から包丁が落ちた。
「うぎゃ」
蹲り足を押さえる。自分の足首あたりに刺さったらしい。
「あとから」
丈二は由紀恵を追うのを優先させる。階段の降り口を前に、由紀恵は足踏みして立ち止まる。目の前に大きな箱が立ち塞がり、運送屋の人たちがいて階段は隙間もない。4人がかりで運んでいる途中。
「あわわっ。じょうじちゃんが。早く受け止めなくては」
叫ぶと踵を返す。反対側の階段から降りるのだろう。下で落ちてきたのをキャッチするのか。ちょっと遅いとは思う。
「お母さん。落ち着いて」
戻ってきた由紀恵に、両手を広げて声をかける。だけれど、丈二の腕をすり抜けて、フレッシュグリーンの香りを残して走り去る。
(また、柔軟剤を使ったか。俺のには使わなくていいのに)
父が吸う煙草の匂いを消すためと話していたけれど、効果があるのか、考えている時ではなかった。
さっきの空き巣は体育座り。右足を伸ばして痛みに堪えるような表情。スマホを手にしていて操作している。
由紀恵は疾走して叫ぶ。
「どいて、しつこい」
空き巣のスマホを蹴飛ばした。くるくる、宙をまわりながら手すりから向こうへ消えたスマホ。
「うわっ。救急車がぁー。呼んでくれぇー」
悲しさと痛さで叫ぶのか、空き巣は。スマホで救急車を呼ぼうとしていたらしい。
「かってに降りれば」
丈二も構っていられない。大股で由紀恵を追う。
「そうだ救急車。丈二を助けなきゃ」
エプロンのポケットをまさぐる由紀恵。スマホを探しているらしいけれど、持ってくる余裕はなかったはず。
「だから。ちょっと」
丈二も息を切らしながら追いついて、由紀恵の肩へ手をかけるけれど、くるっ、横へ曲がって避けられた。空を切る丈二の指先。
階段の降り口だ。たたたた、由紀恵は慣れた足運びで階段を降りる。段差と一段の幅を足が覚えているようだ。
「やはりロボットの正確さと素早さ」
呟きながら丈二も急ぐ。上りなら二段は跳びこせるが、下りで急いだら、前へつんのめるだろう。
「陸上してた? お母さん」
声をかけるが答えるわけもない。由紀恵の隠していた能力に感心もする。
「あーた!」
由紀恵の驚いたような声。
「お父さん。なぜ」
2階の廊下から現れたのは、男女が腰に手を回し合っている姿。男性は父の渡辺憲治。振り向いて、あっ、と口を開けたまま。
女性は細い紐がかけられたような肩先で、胸が大きく開いたワンピースを着る。
(大学生だと噂だ)
女性の胸が谷間を作り、丈二も盗み見したことがある、菜音代という大学生。
由紀恵は一階への降り口へ曲がりながら、右手を伸ばす。
「あーたも来て。じょうじちゃんが落ちたの」
ぐいっ、と相手の手首を引っ張り階段へ進む。
「それ、大学生」
丈二は大声で注意する。
由紀恵は菜音代の右腕を掴んでいるけれど、気づかないようだ。憲治は、えっ、と口の形を変えただけで、立ち尽くしていた。
「あとから」
丈二は憲治を後にして由紀恵を追う。階段の踊り場でもつれ合う二人。
「何してるの、急いで」
由紀恵が急かす。菜音代も条件反射か「はい!?」驚きと疑問の混じったように答えると大きな尻を振りながら走った。
「行きつくところまで行かないと、止まらないか」
ベランダの下へたどり着くまで、なにを言っても無駄だと丈二は悟り、あとを追いかけて階段を降りる。
(気持ちは分かったけどよー。落ち着いて)
由紀恵の強い愛情は感じた丈二。イマイチ考えが分からない。洗濯物が溜まっているのは知っている。こんな日は乾燥機を使いそうなものだ。
「乾燥機はなかったか。お父さんも変なところでケチだ」
日頃から家族との会話も減っている。外ずらは良い、と由紀恵が話していた。近づく台風だけれど、憲治が他所の女性と歩くのも発覚した。大きな嵐を呼ぶ気もする。
最初のコメントを投稿しよう!