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3
階段を降りると駐車場だけれど、ベランダは裏側の駐車場に向いている。階段の隙間がある壁のトンネルに由紀恵たちが走る。
突風が吹き抜けて、ばふっ、とトンネルを笛代わりにした。風も強くなりだした。
「この匂い。タバコかな」
風に乗って漂う異臭は父が吸っていた煙草を思いださせる。
隙間に隠れていたらしい3人の男たちが、足音に気付いたのか現れる。不良と自称していて、丈二も顔は知っていた。
3人は由紀恵たちの前に立ちふさがり、リーダーが左手の指で煙草を挟み悪ぶる。
「おうっ。俺たちに文句か!」
だけれど、怯まない由紀恵。お盆を水平に振り回しながら怒鳴る。
「うざい!」
リーダーの指が弾かれて、タバコが火花を散らして舞う。 由紀恵が回転した勢いで、菜音代も振り回されて、3人の男たちへぶつかっていく。
「あれえー」菜音代の悲鳴。
「うわっ」「うわっ」「うわっ」叫んで倒れる不良たち。
腰が弱いのか尻もちをつく3人。菜音代は男たちを絨毯代わりに転がる。
由紀恵はこの騒ぎを無視して裏の駐車場へ出る。まだ射している太陽を反射して、お盆が銀色に輝く。エプロンが突風ではためき、飛んでいるように走る由紀恵。
「すごいよ、お母さん」
丈二はアニメでも見ているように感じ、激しい感情が由紀恵にあるのも知った。
日頃は夫の浮気を疑ったり、子育てに悩んだりしているはずの由紀恵。パニックになって、潜在的に抑えられていたのが一気に暴発してしまったのだろう。
丈二は走る。周りには何人か野次馬が集まっていた。日曜日のお昼前、食事の準備をする人々だろうか。
「あそこだ。やっと落ち着いたか」
しゃがんでいるいる由紀恵をみつけた。
轟く由紀恵の声。
「うわああ、じょうじちゃーん」
大きな声で泣きだした。
「こんな姿に。うわああー」
(いや。俺は)
丈二は思うが、ちょっと気づいた。
(おかしい。こういうことがあるのか)
人々が集まってきているが、ここへ来るまで声をかけられてないし、由紀恵の肩も指が素通りした。腕からも素通りだった。
「俺は。幽霊になってしまったのか」
それなら納得できる。ソファーに座っているつもりが、本当はベランダから落ちたのだ。それで、魂だけが由紀恵のあとを追った。
ちょっと口に残り、とろとろに溶けたヒトクチポテトを飲み込む。
「甘くもないし、味がしない。幽霊だからなんだ」
耳を澄ますと心臓の高鳴りが脳裏まで揺り動かす。
「幽霊になったことはないけど。こういうものか」
じわじわ身体から熱を奪うような風。まだ肉体のあったころの記憶で、気のせいだろうか。
周りでは、何事だと噂が飛び交う。
「飛び降りジサツだって」
「空き巣を殴って足止めしたらしい」
「未成年の喫煙を諭したのをみた」
「いやいや旦那の不倫を待ち伏せしていたとかいうぞ」
「見ろ。胴体が千切れてる」
「大変だ。上半身はどこへ行った」
枝葉のついた噂が騒音みたいに飛び交う。SNSよりにぎやかだ。
「大袈裟になったなー。無理ないか」
丈二が呟いて由紀恵へ近づくけれど、じょうじちゃーん、と名前を呼び続ける。
「俺。わるかったよ。お母さんの気持ちも知らないで」
由紀恵へ、また一歩近づく丈二。空でピッコロを吹くように風が吹いた。突風が地面を駆け抜ける。ばさっ。ズボンが飛ばされる。ばさばさ、転がって丈二のところへ近づく。
由紀恵が身体を捻って、ズボンを目で追う。
「俺の亡骸か」
丈二は両手でズボンを拾い上げる。
「あれっ」
アパートを見上げた。ズボンが落ちるのを見たはずだった。
「これは。あのズボンだよなー。それでも思ってるだけか」
自分で事実を信じられないで、願いを現実と思い込んでいるのだろうか。
丈二も常識的な判断ができないでいる。走ったから心臓が早く打っている。とっくにお菓子の旨味成分も唾液で溶かされて飲みこまれたあと。
「地縛霊になるのかなー。迷惑はかけられないや。遠くへ行こう」
(せめて最後の別れを告げよう。姿は見えずに声が聞こえなくても、お母さんなら気配を感じ取ってくれるはず)
丈二は最後の勇気をだして顔を上げる。
「おかあさ、んっ」
視界いっぱいに広がる由紀恵の顔。
「動いた、生きてるっ。じょうじちゃんっ」
由紀恵が丈二に被さり抱きしめる。
(久しぶりの匂い。恥ずかしくて、ぎゅっ、とされるのを避けたのはいつごろからかなー)
母に抱かれるのは心地良いと丈二は気づいた。赤ちゃんのころはしがみ付いていたはず。いまは両腕を由紀恵へ回してハグできる。
「これからは俺が守るはずだったのに。あれっ。これって」
由紀恵が存在を認めているらしい。物体としての母子が抱き合っている。
「大丈夫。母さんがついてるから」
ちゃんと会話もしている。内容はちぐはぐだが。
(やはり、お母さんの勘違いだよ)
それでも、しばらくは親子の絆を深めていたい。
近くで、相変わらず立ち尽くす憲治。3人の若者になにやら話しかける菜音代。
(あの空き巣はどうなったのかな)
丈二は気になりながら、パトカーのサイレンを聞いていた。
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