灰色の空の下、緑の中、眠ったように佇む洋館が

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灰色の空の下、緑の中、眠ったように佇む洋館が

 四十年前の今日も、私たちはこの洋館の、表玄関の前に立っていた。  発端はよくある都市伝説だった。町外れの洋館には吸血鬼が住んでおり、昼間は静かに眠っているが、夜になると屋敷の外に出て、新鮮な人間の血を求めて彷徨うのだという。  とはいえ、その怪談を本気で信じたものはそうそう多くはなかったと思う。昭和の終わり頃だった当時でも怪談本の類はありふれていて、無名の一般人の実体験のていで語られるそれらは、ふとしたきっかけで得体の知れない世界に私たちが踏み込んでいき、戻れなくなってしまう可能性への無限の想像力を提供していた。  それらと比べると、洋館の吸血鬼というその噂は、恐怖の象徴というよりは、バタ臭く古臭いおとぎ話めいた響きを持って私たちにも聞こえていた。そうでなければ、小学校の四年生だった私たちがその内部に踏み込み、肝試しに及ぼうなどとは思わなかっただろう。  いずれにせよ、この町には洋館があった。文明化の波に削られつつある雑木林と、住宅街、それから郊外に広がる農地との境界に、塀と有刺鉄線に囲まれた、道からはその緑の屋根と木の壁の眠ったような佇まいだけを伺うことができる、そんな洋館が。大人たちの誰も洋館の由来を知らなかったが、気に留めもしなかった。  それだけに、最近急に語られるようになった吸血鬼とやらの噂もどことなく怪しげだった。洋館に長いこと吸血鬼が住んでいるのなら、昔から語られていたはずだ。  だからその日、私たちはその洋館の前に、自転車で集まった。道路が整備されておらず、内部で腐食した鉄筋の錆が表面まで浮かび上がっている粗雑なコンクリートブロックで塞がれた側溝が自転車の車輪を取ろうと待ち構えているので注意しなければならなかったが、それも当時の私たちにはありふれた光景だった。  集まったのは、久太、辰郎、和也、そして私の四人のクラスメートだ。 「ねえ、あの実何?」  そう聞いたのは、和也だったと私は記憶している。彼の指差す先には、濃い緑の茂みの中に、赤い色が点々と散っていた。 「シキミだよ」  答えたのは、物知りの久太だ。 「食べられるのかな」 「駄目だよ。毒があって、昔はお墓に植えられてたんだったと思う」 「なんで毒がある実をお墓に植えるの?」 「土葬だった頃は、動物がお墓を掘り返しに来ることもあったんだってさ」  そんな話をしている私たちの頭上に、ぽつんと冷たいものが当たる。陰気な灰色だった空が、迫りつつある夕方の冷気に耐えかねたかのように、雨粒となってその湿気を地上に落とし始めていた。 「雨だ。入ろう」  バタバタと私たちは、洋館の中に駆け込む。  しかし、私は思い出せないのだ。扉は開いていたのか。閉ざされていたとすれば、どうやって私たちが、その中に入ったのか。開いていたとすれば、どうしてそのことを、私たちは不思議に思わなかったのか。  だが、洋館の中には何もなかった。  この周囲の土地や、外から眺めた時の陰気さからは意外なほどに、中は明るかった。もちろん電気はついていなかったが、採光窓は大きく、外の光を十分取り入れる形になっていたし、剥き出しの木の壁が、真新しいおもてを覗かせていた。どうも施工途中のような風情で、室内にはうっすらと木材由来の揮発臭が漂っていた。 「何もないのかな」 「吸血鬼なんて、嘘っぱちなんだよ」 「大したことなかったね」  そんなことを口々に言い合いながら、私たちは一番奥の部屋へと向かったのだ。  そうして私たちが足を踏み入れたその部屋も、他の部屋と大きな違いはなかった。ただ一つ、西洋式の大きな棺桶が部屋の真ん中に置かれている以外は。 「ねえ、何これ?」  そんな言わずもがなのことを言ったのは、確か和也だった。 「棺桶みたいだね」  そう言ったのは私だ。そして、その扉の上に手を置いてみるものの、棺桶の蓋は大きく、また重そうで、ちょっとやそっとでは動きそうにない。 「開けてみる?」 「嫌だよ、怖いから」  辰郎の問いかけに私は声を上げる。  怖い。その言葉に、私たちの鈍い恐怖心がやっと反応したようだった。正体不明の洋館の一室に置かれた立派な棺桶。これが怪談でなくてなんだろう? 「わ、わああああああっ!!」  私たちは口々に叫ぶと、その部屋から駆け出し、出口を目指したのだった。  話がこれだけで終わっていれば、少年期のちょっとした冒険で済んだだろう。だが、そうはならなかった。どういうわけか、一緒に逃げていたはずの三人とはぐれてしまい、気が付いた時には私は、一人で屋敷の中を彷徨っていた。  ぼんやりとした気分で、私は廊下の角を曲がる。 「……あれ」  そこには人がいた。当時の私と同じぐらいの背丈で、こちらに半ば背を向けていた。仕立ての良さそうな、だけどさりげないワンピースの姿で、肩までの紅い髪がくるくると巻いていた。どうやら女の子で、それも外国人らしき、十歳ぐらいの少女という姿だった。 「……こんにちは」  少女は私に気がついた様子で、自分から私に声をかけ、近づいてきた。彼女の顔をしかと思い出すことはできないが、その唇が紅かったことを私は鮮明に記憶している。 「ごめん。君の家なの?」 「いいのよ。別に」 「ねえ、他に三人いたんだけど、見なかった?」 「知らないわ」  そう答えると、少女はからからと笑った。まるで鈴を転がすかのような笑い声は、状況が違えば愛らしく聞こえたかもしれない。だが、その時の私には軽く苛立たしかった。 「ねえ、何がおかしいの?」 「どうしてかしらね?」  私の詰問も、少女は軽くいなしてしまった。 「じゃあ、僕は帰るよ。他の三人を見つけ出さないとならないから」  私は今まで来た道を戻ろうとする。 「ねえ。待って」  そう言って、後ろから近づいてきた彼女は私の手首を握った。 「……えっ、ちょっと!」  意外にも強い力に、私は引っ張られてしまった。 「ねえ、私に会ったことは、他の誰にも言っちゃ駄目よ。お願いね」  それから彼女は、私の耳元で囁いたのだ。 「さもないと」 「さもないと、何が……」  私は最後まで言い終わらなかった。 「おーい。どうしたんだよ?」  私は気が付く。洋館の入り口の近くの、暗い廊下に立っていることに。呼んでいるのは辰郎で、そばには久太の姿もあった。 「ごめんごめん! 迷っちゃって。早く出よう、こんな怪しい洋館」  そう言って私たち三人は、その洋館を後にしたのだった。  それから既に、四十年が経過している。そしてまた私は、あの洋館の扉の前に立っている。あの時の肝試しとは違っていて、今は私一人だ。辰郎も久太も、既にこの世にはいない。  二十歳を過ぎた頃、辰郎はバイクの事故で死んだ。久太はずっと会社勤めをしていたが、白血病にかかり、闘病虚しくあっという間に死んでしまった。  彼が亡くなる少し前、私が彼の病室を訪ねた時のことだった。無菌室に入れられ、痛々しい様子だった久太だが、意識は清明なようだった。  そうして、彼が言ったのだ。 「なあ。俺たち、何か忘れてると思わないか?」 「何を?」 「和也、っていたよな?」  そうだった。あの肝試しで洋館に入った時は、久太、辰郎、和也、私の四人。出て行く時は、久太、辰郎、私の三人。それなのに、ずっと私たちは和也のことを忘れていた。行方不明でもなく、転校でもなく、その日を境に私たちの生活から和也は消えたのだ。それなのに私たちは、そのことを気にも留めず、和也のことを思い出しすらしなかった。  あるいは、私たちが忘れているだけなのかもしれない。既に長い年月が経過しているので、昔の記憶はあやふやになっていても不思議ではない。その時も四人いたのに、それを忘れているだけなのかもしれない。だけど、和也がその後どうなったのか、一緒に小学校を卒業したのか、その後どういう進路を辿ったのか、私は全く思い出せないのだ。  そもそも、だ。私は今まで、その肝試しのことすら忘れていて、思い出しすらしていなかった。久太に言われて初めて、私は洋館の肝試しについて思い出したのだ。  しかし、久太は疲れているようで、それ以上のことを思い出して語るとか、私が何か聞き出すことはできなかった。彼の体調を慮り私はその場を辞したのだが、久太とはそれっきりになってしまった。  その後和也について調べたのだが、思った以上に大した情報は得られなかった。分かったのは、小学校の卒業アルバムにはいないということだけだ。転校したのかもしれないし、本当にいなくなったのかもしれない。年度ごとのクラスの文集とか、幼稚園の卒園アルバムは見つけられなかった。結局私は、自分が普段生活しているこの世界で、和也がいたのか、そもそもそんな人物はいなかったのかすら分からなかった。    だから、私は再び、あの洋館の前に立っている。  四十年前の今日と同じ、今にも雨粒が落ちてきそうな灰色の曇り空の下で。  私たち四人は、本当に四人で、この洋館を訪れたのか。本当に四人だったのか。  私たちはこの中で、あの棺桶を見たのか。あの棺桶には、何か意味があったのか。  和也がその痕跡も残さず、跡形もなく消えてしまうような、重大な意味が。  そうして、私が出会ったあの少女。  彼女は本当に存在したのか。和也の失踪と、彼女は何か関係しているのか。  ここに来て私は一つの可能性、幻想に囚われている。  私達四人は皆、それぞれあの少女に出会っていた、別々に。  私、久太、辰郎はそれぞれ約束させられた、彼女に会ったことは誰にも言わないと。しかし、和也は――。  辰郎はずっと前に死んだ、きっと彼女に会ったことを、誰かに喋ってしまったから。  そして、久太は。久太がそれを喋った相手は。いや、彼は喋っていない。単に、肝試しについて語っただけだ。だが、彼がそれを語った相手は。  私、だった。  それとも全ては間違い、勘違いで、全ての物事は自然に従って動いているだけなのか。  たった一人残った私、この私を満足させられる全ての答えが、この内部に存在しているのか。  その真実を突き止められるとしたら、もう私以外にいないのだ。  勇気を振り絞れ。真実を見極めろ。  私は手を掛ける。四十年前と少しも変わらない真っ黒な扉、その金色に輝くドアノブに。  音もなく扉が開く。  私は足を踏み入れる。  扉が閉まる直前、濃い緑の葉の中に点々と散ったシキミの赤い実の色が、まるで血の滴のような鮮やかさで輝いていた光景が、私の目に焼きついたのだった。 (了)
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