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「ふっ、そんなに警戒しなくても……。別にとって食いはしないよ」
どうやらよほど変な顔をしていたらしい。彼は肩を揺らしながら低く笑った。
「君の嫌がるような事は何もしない。約束するよ。ただゆっくりとした場所で、君が弾くヴァイオリンを聴きたいんだ。それにこれは俺が君に個人的にお願いしたことだ。お礼をするのは当たり前だ」
「す、すみません。そんなつもりじゃ、ないんです」
私は未だ動揺を隠しきれないまま、彼に慌てて首を横に振った。
「ただ、その……男性の部屋に今まで一度もお邪魔したことがなくて。それでちょっと驚いただけです」
すると彼は「そっか……」と言って、笑みを口元に浮かべた。
「実は俺も女性を家に招くのは初めてなんだ。この一週間は一生懸命部屋の掃除をすることにするよ」
奏さんはそんな冗談を言いながら無邪気な罪のない笑顔を見せる。
彼は身元もしっかりした人だし、何と言っても警察官一家の出身。それになにも私みたいな女に手を出さなくても、彼にはもっと素敵な女性が掃いて捨てるほど周りにいる。
「わ、わかりました。ではお言葉に甘えてお邪魔させていただきます」
私は気を取り直して、彼に小さく微笑んだ。
「うん、それじゃ、おやすみ。来週、楽しみにしてる」
「はい、私も。それじゃ、今日は本当にありがとうございました」
私は再びお礼を述べると、ひとり家の中に入った。シーンとした我が家がなぜか今日だけやけに寂しく感じてしまう。
やがて車のエンジン音が外から聞こえてくる。
私は玄関のドアに寄りかかったまま、彼の車が去っていく音にじっと耳を傾けていた。
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