第4章

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 「奏さん、準備ができました」  およそ15分後、私はキッチンで何か用意している彼に声をかけた。  「わかった。今行く」  彼はキッチンから出てくると、リビングルームのカウチにゆっくりと腰をおろした。  「あの、本当にあまり期待しないでくださいね」  私は大きく深呼吸した。誰かの為にヴァイオリンを弾くなんて、あの事故の夜以来だ。はっきり言ってものすごく緊張する。  「大丈夫だ。君ならきっと上手く弾ける」  ゆっくりと視線をあげると奏さんの真剣な瞳とぶつかる。  子供の頃からヴァイオリンを両親と弾くのが大好きだった。愛する人の喜ぶ顔が見たいと、愛する人の為にヴァイオリンを弾き続けたいとそう思っていた。  でも最愛の家族はもうこの世にいない。その代わり、今私の目の前には奏さんがいる。  私はもう一度深く息を吐き出した。  「今日用意したのは、タイスの瞑想曲、モンティのチャルダッシュ、そしてモーツァルトのバイオリン協奏曲第3番です」  かつてステージに立った時と同様に、観客である奏さんにゆっくりとお辞儀をした。  そしてヴァイオリンを肩にあてると、ゆっくりとタイスの瞑想曲から弾き始めた。    タイスの瞑想曲はオペラ『タイス』の第2幕の第1場と第2場の間で演奏される間奏曲で、5分程度のゆっくりとした美しい曲になる。それを無事弾き終えると、今度はモンティのチャルダッシュを弾く。  チャルダッシュ(Czardas)はハンガリー語で「酒場」という意味で、初めは哀愁漂うゆっくりとしたテンポで始まる。でも次第にテンポが早くなるノリのいい曲で、昔はよく父と母と一緒に弾いていた。  そして最後にモーツァルトのバイオリン協奏曲第3番を弾く。明るく軽快なテンポの曲をどんどん弾き続け、最後の方になると私は一旦止まる。そして一番最後にあるカデンツァ(Cadenza)を弾いた。  ここはオーケストラは演奏をやめ、ソリストが独奏する部分になる。奏者の技量が一番輝く部分でもあり、観客もオーケストラも皆、奏者の華麗な演奏に耳を傾ける。その美しいメロディーを私は最後まで弾き続ける。  やがて奏さんの拍手と共に無事全て弾き終えた私は、笑顔でお辞儀をした。
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