第6章

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 A(ラ)、A(ラ)、E(ミ)、と高音のフォルティシモで始まるこの曲を、私は勢いよく弾き始める。  元々この曲はオーケストラと演奏する曲なので、随所にお休みが入る。でもオーケストラの音を頭の中でとりながらひたすら弾き続ける。  一通り全部弾き終わると、私はヴァイオリンを肩からおろして小さく溜息をついた。  (やっぱり、ダメだ……)  ゴロンと目の前にあるカウチの上に寝転がる。そしてヴァイオリンを横抱きに抱えるとウクレレのように指でポロンポリンと弾いた。  『スランプ』という言葉がふと頭に浮かぶ。あれだけ好きだったヴァイオリンなのに、何故か以前のように心が踊らない。もうこの10年、私の心は貝殻のように閉じたまま、スランプのままだ。  でも――…  先日奏さんに弾いた時のあの清々しい気持ちを思い出す。あの時確かに楽しかった。心が踊った。彼に拍手をもらった時、彼の笑顔をみた時、喜びが心から溢れた。  目を閉じると、再びここ数週間、私の心に居座る人のことを考えてしまう。友人でもセフレでもない。突然強引に恋人になってしまった男性の事を……。  ちょうどその時、ガタン――…と玄関のドアが開く音がして、私は目を開けた。  (えっ、奏さん今日帰ってくるの早い……)  ちらりと壁時計を見るとまだ22時。こんな早い時間に帰ってきたのは同棲を始めて以来初めてだ。  私は慌ててカウチから飛び起きると、ヴァイオリンをケースにしまった。  玄関まで出迎えようとした時、ちょうど彼がリビングルームに入ってくる。でも彼の顔を一目見た私は慌てて彼に駆け寄った。  「奏さん!大丈夫ですか?」  彼は具合が悪いのか顔が真っ青だ。どうりでいつもより帰りが早いはずだ。  「ごめん、驚かせて。時々片頭痛になるんだ。いつもは薬を常備してるんだけど、今日はたまたま持ってなくて。でも薬を飲めば治るから」  彼は申し訳なさそうに微笑むけど、私はその辛そうな様子にかなり慌ててしまう。
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