クローゼットからこんにちは

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クローゼットからこんにちは

荷物を床へと放り投げ、エアコンの除湿ボタンを押してベッドへとダイブ。 そして寝転がりながらスマホをいじる俺、ひとりでに開く、クローゼットの中から出てくる女の人。 「ぎゃああああ!」 仕事から帰って来て疲れた俺を癒してくれる慈しみで溢れた自室は、たった今この瞬間B級ホラー映画もびっくりのパニック現場へと変貌を遂げたのであった。 思わず手に持っていたスマホを唐突に現れた女の人へと向かって投げ、しかしそれはクローゼットのドアへと当たり、少しばかり大袈裟な音を立てて床へと落ちる。 「俺のスマホがぁ!」 目の前に謎の女の人がいるというのに画面のヒビを気にする俺はスマホ中毒者だろうか。 「あ、あの…」 「ぎゃあ!喋った!」 「あなた誰ですか?」 話しかけられたのでよくよく確認してみると、その女の人は戸惑っているように見えた。 その黒くて長い髪の毛がクローゼットの中にしまわれている俺の服にかかっていないことを祈る。 「こっちが聞きたいよ!お前誰だよ!勝手に俺のクローゼットから出て来て」 「あ、申し遅れました…私幽霊でして」 「だろうな!」 ぬるりとクローゼットから出て来たその女は白いワンピースを着ているようだった。 風貌からするに、まるで死装束。…と頭に言葉が浮かんだけれども兎に角怖くて仕方ないので黙っておくことにする。 「失礼ですが、彼女さんとか…いらっしゃいますか?」 まさか幽霊と名乗る女に痛いところを突かれる日が来るとは思わなかった。 自慢じゃないが、この俺は生まれてこの方彼女などできた事がないのだ。 奥手だね、と言えば聞こえはいいが…実際の所ただ勇気が出ないだけ。 気になる女の人ができたことはあるけれども、いつだって誰かに先を越されてしまう。 俺はいつも、誰かの恋愛物語に出てくるような祝福を送る為のモブなのだから… 「いないって言ったらどうなるんだよ、それがお前になにか関係あるのか?」 「あっ」 幽霊は顔を赤らめて、口元に手をやり、小さく俯いた。 服の端をぎゅう、と握りしめるその姿はまあまあ可愛らしく思える。 「間違えちゃいました」 「何を」 「出てくる家」 てへ、と小さく肩をすくめるその姿に緊張の糸が解けた俺はベッドへ顔から突っ伏した。 ふざけんなよ。 呪い殺されるかなとか、遙か遠いご先祖様がやらかした自分の知らない祟りかなとか、色々考えちゃったじゃないか。 「じゃあなんだよ、俺はただお前に童貞だって告白しただけなのか!?」 「えっ、童貞なんですか!」 「言ったじゃん彼女できた事ないって!」 「ええと…今どき、付き合わなくても体の関係がある方はいらっしゃると思いますが…」 何で俺は勝手に現れた幽霊に正論を言われて撃沈しなければいけないのだ。 しかもこの口ぶり、多分幽霊よりも俺は人生経験が薄い。 きっとそう、多分そう。 「スマホ、画面割れてないですよ。よかったですね」 そう言って幽霊は俺にスマホを手渡してくれた。 触れた部分が少しひんやりとしていて驚く。 幽霊って本当に冷たいんだ、とか物持てるんだ、とか。 随分ステレオタイプな感じだな、と。 「ありがと…う、なのか?でも俺も急にスマホ投げて悪かったよ」 「私…まだ現世に悔いがあるのか、成仏できないんです。だからその未練を果たす為に存在してるはずなんですが…驚かせちゃいました、ごめんなさい」 何かを持つ事ができるということは、これが当たっていれば痛い思いをしたかもしれないという事。 随分友好的な幽霊だなと思ったので、非礼は詫びておく。 「…魚がお好きなんですね」 「え?」 冷たい指先が俺のスマホを指差す。 自動でスリープが解除された画面には、つい最近水族館で撮ったカクレクマノミの画像が表示されている。 「これもしかして…隣の県の水族館の…あ、熱帯魚コーナーですか?私も好きだったんですよ、魚。年パス持ってました」 生前水族館の年間パスポートを持っていた幽霊か…と思うと、急にこの女の人が可愛く思えて来た。 他の写真はないんですか?と聞かれたのでその日の写真フォルダを見せてあげることにした。 「お目が高いですね、珊瑚だけの写真を撮るなんて」 「あー…俺にとっちゃどこから本物で、どれが偽物かわからないけど…でも好きなんだ、魚も珊瑚も生きてるって感じがして」 俺は人間とはまた違う生命を感じられる、そんな生態系を持つ生き物が好きだ。 だからこうして定期的に水族館に行っては(勿論一人で)写真を撮り、見返すのが趣味だった。 根暗だと言われたこともあったけど、他人の趣味にケチをつけるような人間なんかよりよっぽど良い。 「ふふふ、私も同じこと考えてました」 死んでしまった彼女にとって、今の発言は皮肉になってしまったかもしれない、と慌てて顔を見たけれども、優しく笑う表情にホッと胸を撫で下ろした。
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