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リゼットが屋敷に帰ると、玄関ホールに義母が現れた。
「リゼット! 制服で帰ってこないでと言っているでしょう!」
「といっても、署で私服に着替えるのも手間ですし……」
なにより制服はズボンなので動きやすい。
私服となると、貴族階級のリゼットは小洒落たワンピースぐらいしか選択肢がない。
紺色を基調とした警官の制服は地味だが、リゼットは気に入っていた。
「あなたはそれでも侯爵令嬢の自覚があるの?」
金髪をひっつめ髪にした彼女は、リゼットには全く似ていない。
当たり前だ。――血のつながりがないのだから。
「……結婚しなさい。あなたの義務です」
いきなりの発言に、リゼットは思わず眉をひそめる。
「その話は、終わったはずです。あたしは警官になった。結婚する必要はない」
リゼットはきっぱりと言い切る。
エルみたいに言わないのは、話題にすらしたくないから。
貴族女性の結婚は、政略結婚がほとんどだ。家に利益をもたらすための結婚。
(都合のいいときだけ、令嬢扱いして!)
ぐっと拳を握る。
脳裏によぎるは、赤毛の美しい女性。――本当の母親。
リゼットは母と下町に住んでいた。
『めかけのこ』
『あいじんのむすめ』
時折、ケンカした子供たちから投げかけられた言葉。
そのときは、意味がわからなかった。
リゼットが十歳のとき、母が病気になった。
弱った母は『お父さんに、全て頼んだわ』と言い残した。
彼女の死に際も見とれず、リゼットはいきなり現れた壮年の男性に連れて行かれたのだ。
あとで母は手厚く葬ったと説明されても、納得できなくて。
下町で育ったリゼットは、いきなり侯爵令嬢になった。
本妻には子供がふたりいて、どちらもリゼットには冷淡だった。
愛人の子なんて、それは面白くないだろうから当然の反応だとはわかっていた。
孤独になったリゼットには家庭教師がつけられ、貴族令嬢としての立ち振る舞いがたたき込まれた。
それで、将来まで――家のための結婚で決められるのかと思えば、嫌気が差した。
そんなところに、警察アカデミーが女性に門戸を開いたという知らせを聞いたのだ。
リゼットは父親に直談判して入学許可を取り付け、死に物狂いでアカデミーの厳しい訓練をくぐりぬけた。
「もう少ししたら、家を出ます。だから、結婚は――」
「結婚はしなさい。これは決定事項です」
義母の口振りに、不穏なものを感じ取る。
これは、いつものお小言とは違う。
「決定……とは?」
「ルーメン侯爵のご子息ヴァンデンス様との結婚が決まりました。あなたに拒否権はありません。結婚式は一ヶ月後です」
「…………」
リゼットは唖然として、もう少しで膝をついてしまうところだった。
その後、どうやって過ごしたかよく覚えていない。
気がつけば職場に行って、席に着いていた。
(ショックすぎて、記憶が飛んでる……)
リゼットが机に突っ伏したところで、ミランダとエルが入ってきた。
彼女たちが結婚について話すかたわら、知らないふりをしていたのは目を背けたかったから。
(一番、結婚に関して敏感になっていたのはあたしだ……)
ぼんやりしていると、ミランダが眉をひそめた。
「リゼット? どうかして? 顔が青いわよ」
「あ、ほんとだ。体調悪いの?」
心配されて、リゼットは思わずこぼしてしまう。
「実は――結婚することになった」
ふたりは「ええ!?」と同時に声をあげる。
「なんでさー、リゼット! ぼくたち、結婚しない同盟を組んだのに!」
わっ、とエルに泣きつかれる。
「そんなもの組んでたの?」
ミランダは呆れている。
(たしか酒の席で、そんな話になったような……)
思い出しながら、頭が痛くなってくる。
「あたしだって、本意じゃないんだ。でも、もう決定って言われたし」
「それで、お相手は?」
ミランダは席に着き、腕を組んで問いつめてきた。
「ルーメン侯爵の息子とか……名前はヴァンデンスだったかな」
「ヴァンデンス・ルーメン!?」
ミランダには聞き覚えがあったらしい。
「知っているのが? ミランダ」
「うわさでね。宮廷に出仕している魔術師よ。この国で一番強い魔術師なんじゃない? ……『清き水の魔術師』って異名があるわ」
異名つきの魔術師と聞いて、ますます腰が引けてくる。
「なんでそんなこと知ってるの? 王家のパーティには出られないって言ってたじゃないか」
「王家のパーティには出られなくても、他の貴族主催のパーティには出ることがあるのよ」
ミランダの家カヌス家はもともとは子爵家だったのだが、当主――ミランダの父が賭け事にハマって破産したせいで一文無しになった。
賭博でも違法賭博をしていたということもあり、王はこの事態を重く見て援助する代わりにカヌス家から爵位を剥奪した。
王宮への出入りも厳しく制限され、王の許可が出るまではカヌス家の者は王宮に入れない。
一時期は首都と領地に大きな邸宅を構えていたカヌス家だが、それらも売り飛ばされ、今や首都の片隅に小さな家で身を寄せ合って住んでいるとか。
今はミランダの父親は庭師として働いており、ミランダはこうして警官になって家計を支えている。
「清き水の魔術師って、なんでそんな異名が?」
呆然とするリゼットに代わって、というより好奇心に負けてエルが尋ねる。
「水魔法が卓越してるからよ。ほら、魔法って地水火風に大別できるじゃない? そのなかでも、個々人で得意な魔法は違っていて、ヴァンデンス様は水魔法が大得意だとか。清き――は、よくわからないけど……潔癖な性格なんじゃない?」
後半部分のいい加減さにリゼットもエルもがっくり肩を落とす。
「次男だから、長男よりはいいんじゃない? ほら、長男だと跡継ぎ跡継ぎって義理の母がうるさいって言うでしょ。ああ、あと――」
言いかけて、ミランダは途中でやめる。
「ミランダ、なにか思いついたなら言ってくれ。悪評なら、むしろ聞いておきたい」
素早くリゼットが頼むと、ミランダはため息交じりに教えてくれた。
「詳細は知らないけど……婚約が破談した過去があるらしいわ」
聞いたのはリゼットなのだが……
(やっぱり聞かなきゃよかった)
と思うのは止められなかった。
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