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つられて俺も見上げてみるが、空に不審なものは何もない。鳥もいなければ飛行機もなく、雲すらなかった。
どうにも納得できなくて、彼女を観察してみる。すると、視線は空ではなくて、左手のコンクリートの崖の上に注がれているのが分かった。
崖の上にはブロックを積み重ねただけの塀がある。向こう側は民家の庭なのだろう。飾り穴から草が覗いていた。年季の入った塀の上からは木の枝が伸びている。若葉に混ざって桃色の花を咲かせたそれは桜だ。
彼女が見ていたのは、この桜だったらしい。
何年もこの坂を登って通勤していたが、こんなところに桜があったなんて、今まで知らなかった。いつも俯いて地面ばかりを見ていたせいだ。きっと昨年も一昨年も、ずっと前からあの桜はあったのだろう。
突き出ているのはあの枝一本だけで、そこに残っている花もわずかしかない。他はみんな散ってしまったのだ。ポツンと取り残された花は、けれど健気に天を仰ぎ、青一色の空に彩りを添えている。
その色は代わり映えのない毎日で、倦み疲れていた俺の目に殊更鮮やかに焼け付いた。
束の間、俺も桜に見惚れる。
しばらくして正面に顔を戻すと、彼女はまだ桜を眺めていた。ふいに、彼女の頬を花弁がかすめる。崖の上から舞い降りた花弁が、はらはらと頬を撫でていった。彼女はそれを気持ち良さそうに受けている。
ああ、この花弁で、彼女は桜に気が付いたのか。
俺は毎日この坂を登っていても、桜の木があることすら知らなかったけど、彼女はたったひとひらの花弁で、桜を見つけることができた。
きっと、見えている世界が俺とは違うのだ。俺は忙殺してくる日常にばかり視線を向けていた。きっと他にも、こんな風に自分は取りこぼしてしまったものが、たくさんあるのだろうな。
もう一度彼女を窺うと、舞い降りた花を手の平で受け止めている。わずかに口元がほころんでいた。
その表情があんまり幸せそうなものだから、俺もうっかり微笑んでしまった。
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