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――眩しいな……。
この日のために新調したマスカラを盛りに盛って、丁寧にまつ毛を上げた。それらに縁取られた目を細める。
高園 倫(こうぞの りん)は数多の聴衆の最前列に陣取り――これは控えめなタチの彼女にしては珍しく積極的な行動であったが、今日ばかりは遠慮などしていられなかったのだ。
――日比野くん、かっこいい……。
自分から三mほど離れた、床よりもわずかに高い演台にて、倫のお目当ての「彼」――日比野 晴馬(ひびの はるま)は照れくさそうに頭をかいている。司会者より一歩下がって、だけど倫を含めた人々の視線は、一心に晴馬に注がれているのだった。
晴馬から発せられる輝き――というと、怪しい宗教にでもハマッているかのようで嫌だが、そうとしか表現しようがない。ともかくその光が尊くて――これもまた怪しいスピリチュアル系にかぶれているようで嫌だが、思わず泣いてしまいそうになる。だがそんなのはあまりにキモイし、せっかく綺麗に引けたアイラインが消えても困るので、なんとか耐えた。
なにしろ宴はまだ始まったばかりなのだから、顔面に施したメイクには頑張ってもらわねば。その代わりキュッと唇を噛み、気合いを入れ直して、倫は演台を見上げた。
倫の勤める会社に大変喜ばしいニュースがもたらされたのは、一月前のことだ。起死回生のその知らせに上層陣は大いに喜び、今日この場を設けてくれた。
普段は締まり屋のお偉いさんも今回ばかりは奮発したらしく、有名ホテルのバンケットルームを借しきっての祝賀パーティー。
――しかし所詮は社内の集まり。悪く言えば素人くさい、良く言えばリラックスしたムードの中で、現在イベントは進行中である。
「皆さん、こちらにご注目ください!」
どこかぎこちない司会は、総務部の二年生が務めている。
「それではこのたび大成果を上げましたプロジェクトの、リーダーのお話を伺ってみましょう!」
司会者が声を張り上げると、後方のテーブルで飲み食いしていた人々の喧騒が途切れる。と同時に演台の上の日比野 晴馬が、高い背をペコペコ曲げながら前へ進み出た。
「こんばんは、お疲れさまです。グローバル技術開発二課、ジュニア・プロジェクトマネージャの日比野 晴馬です」
愛嬌のある表情と喋り方でありながら、晴馬は堂々としている。「安心して見ていられる」、そういった雰囲気だ。人ごとながら、倫はホッと胸を撫で下ろした。
――まあ私なんかが心配する必要なんてない、スゴイ人なんだけどね……。
しかしなぜか初めて会ったときから、倫は晴馬に対して無駄に気を揉んでみたり、なにかしらムズムズとお世話したくなってしまうのだ。倫がお節介なだけなのか、晴馬が人懐っこいタイプだからなのか、謎である。
「本日はこのような素晴らしい会を開いてくださった社長をはじめ役員の方々、またお集まりいただいた皆様に感謝いたします。ありがとうございました」
晴馬が深々と礼をすると、同期の男性たちから「イケメン、抱いて!」と冷やかしの声が上がる。プッと吹き出した晴馬は、仲の良い彼らに手を振った。
「このたびは栄誉ある賞を受賞されて、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「早速ですが、もう一度受賞作品について、概要からご説明いただけますか」
「はい。それでは簡単にですが……」
晴馬は今年で入社四年目のエンジニアだ。経験年数からいえばまだ若輩者だった彼は、一年前、とあるプロジェクトのリーダーに抜擢された。
晴馬が任されたのは、元々は短期かつ小規模な案件だった。若手教育の意味合いが強いものだったのだが、いざ走り出してみると、とても優れた、いわゆる「売れる」成果物を生み出せる公算が大きくなり、だから会社側も本腰を入れて晴馬のプロジェクトをバックアップしたのである。
ちなみに本来は取るに足らない平凡なこの一案件が化けたのは、晴馬による斬新な設計とアイデアによるところが大きいとのこと。
さて、そのような経緯を経て生み出された開発物は、このたび見事、権威ある賞を受賞するに至る。結果、社内は上へ下への大騒ぎとなった。浮かれた社長や役員たちによって急遽開かれたのが、今夜の祝宴というわけである。
「当初の予定よりも開発スケールが格段に大きくなったわけですが、その辺の対応はどのようになさったのでしょうか。マインド的にも大きな切り替えが必要かと思いますが」
「はい、それは……」
あらかじめ質問と答えは用意してあったのだろう。司会者と晴馬の問答は淀みなく続く。
十五分ほど経てば、飽きた幾人かはテーブルまで下がり、飲食を再開させた。会社の集まりなど、まあそんなものだろう。
だがもちろん倫は晴馬の一言一句を聞き漏らすまいと、固唾を飲んで、晴馬たちのやり取りに見入っている。
――ほんと仕事もできるし、かっこいいし、すごいよねえ。
時々ユーモアも交えてハキハキと語っている晴馬を前に、倫は誇らしい気持ちになる。
だが少し寂しい気もするのだ。これまで毎日一緒に仕事をしていた後輩が、いきなり遠いところへいってしまったかのようで――。
――でもそもそも、私と日比野くんは住む世界が違うかあ。
身分不相応な感傷に呆れて、倫は苦笑を漏らした。
晴馬は技術者だが、倫は一般職。庶務担当のようなものだ。自社の花形部署、「開発部」などとは無縁である。
倫はエンジニアたちに代わって煩わしい雑事を処理するだけの、お手伝いさんだったのだ。
取り掛かっている案件の規模が大きくなるにつれて、晴馬たち開発メンバーは多忙を極めた。せめて誰でもできるような、簡単な日常業務だけでも手放せたら……ということで、倫がヘルプに入ったのだ。
打ち合わせ各回の議事録作成、多種に渡る申請書類作成、電話番、備品の調達、経費精算、スケジュール管理――などなど。
どれも大して難しいものではないが、大量に発生し、ただただ面倒くさいそれらを、倫は素早く正確に処理したつもりだ。
皆が快適に仕事に取り組めるように。なんの支障もなく、プロジェクトを遂行できるように。
――私も今回は勉強になったなあ。
作業効率化とは――などと、倫も自分の業務の問題点や解決策などを考える良い機会になった。
そのほか、例えば晴馬は二つ年下だったが、仕事への姿勢や着眼点、推進力など見習うべきところは多く、そこを含めて良い経験をしたと思っている。
――側にいて、もっとたくさん学びたかったな。
それは贅沢というものか。大体勤続年数だけでいえば、先輩になるのはこちらのほうなのだから。
つい調子に乗った自分を叱咤しつつ、倫は壇上で続いている晴馬のインタビューに耳を傾けた。
「今回の受賞は、多くの方々のご助力があってのことです。部長、諸先輩がた、チームのメンバー、そのほか支えてくださった皆様に、心よりお礼を申し上げます」
ライトなど当てられなくても、内側からみなぎる確固たる自信と信念によって、晴馬はキラキラ輝いている。嬉しいやら感動するやらで、思わず母親のような気持ちになってしまった倫は、我慢できずとうとう目尻に滲み出た涙をそっと拭った。
息子とも思えるような――いや、そんな年齢では全くないのだが、晴馬との別れが悲い。
プロジェクトは目的を終え、じき縮小される。メンテナンスや次期開発のため幾人かは残るが、ほとんどが移動する予定だ。
倫も総務部に戻る。
晴馬は――これだけの仕事をやり遂げたのだ、様々なプロジェクトからの引き合いが殺到していると聞く。彼ならきっと、どこででもやっていけるだろう。
――私はどうなるのかな。どうしたいのかな……。
ふと、倫は自身を省みた。
高校を出てすぐに就職し、今年で勤続十二年目になる。もうちょっとで三十路だ。
対して晴馬は名門国立大学院卒で、確か二十八歳になったばかり。年下だが、こうも実力が違い過ぎると、悔しさも嫉妬心も湧いてこない。ひたすら応援したくなる。もっともそれは、晴馬の好ましい性格のせいかもしれなかった。
技術者というのは偏屈も多いものだが、晴馬にはそういったところがない。温厚で、人の和を大事にする。どんな相手の意見でも聞くし、見下したりしない。
そんなリーダーが率いていたのだ。プロジェクト内は忙しいながらも終始良い雰囲気を保っており、だからこそ予想以上の成功を収めたのではないだろうか。
「それでは最後の質問をさせてください。日比野さんはまだ二十八歳という若さでいらっしゃいますが、この会場にも若き技術者たちが集まっています。よろしければその人たちに向けて、なにかアドバイスなどいただけますか?」
「ええ!? うーん、僕はまだまだ未熟で、偉そうにアドバイスなんてできるような人間ではないのですが……」
この問いは打ち合わせになかったらしい。晴馬は困ったように眉を寄せ、会場を見回した。
その拍子に、倫と目が合う。
すると晴馬は、にこりと笑った。
「……?」
――知った顔を見つけて、嬉しかったのかな?
倫はよく分からず、とりあえず笑い返した。
晴馬は倫の目を見たまま、にこやかに口を開いた。
「そう……。そうですね……。皆さんも普段、家族や同僚、恋人などと、お話をされると思います。その会話ひとつひとつを、疎かにしないことをお薦めします。他人の一言というのは――『ひとごと』というくらい無責任に聞こえたりして、腹が立つことも多いと思います。ですが、そこにこそヒントが隠れているのです。自分では決して思いつかなかったようなこと、そういった発想などを、他者は与えてくれますから」
「なるほど~! コミュニケーションが大切ということですね!」
「ええ、まあ、そうですね」
司会者のありきたりな解釈に、晴馬は曖昧に微笑んでいる。
「日比野 晴馬さんでした。もう一度、拍手をお願いします!」
どっと湧き起こった拍手に、晴馬がお辞儀をする。倫も周囲に負けないくらい、パチパチと大きく手を叩いた。
授賞式から一時間後。晴馬と倫は会社に戻り、向かい合ってお茶を飲んでいた。
パーティー会場だったホテルからここまでは、電車で二駅離れている。先ほど会場に展示していたパソコンや資料を持って、二人で戻ってきたばかりだった。倫は一人で運ぶつもりだったが、晴馬がつき添うと食い下がったのだ。
「本当に一人で大丈夫だったのに……。荷物だって、軽いんだし」
「いやいや、女の人ひとりじゃ危ないでしょ? 時間も遅いし」
「でも日比野くん、式のあと、上の人から飲みに誘われたりしたんじゃない?」
「それは日を改めてもらいました。多分、来週の金曜日になると思います。そのときは、高園さんも一緒に来てくださいね」
晴馬にそう言われて、倫の背筋はぴっと伸びた。
「ええー!? 社長も来るんだよね!? 私なんかが行っていいところじゃないよー!」
冗談めかして、だがかなり本気で拒否しようとする倫に、晴馬は真顔で諭した。
「なに言ってるんです。高園さんは今回のプロジェクトの功労者でしょ。堂々と出席してくださいよ」
「いやいや……。そんなたいしたことしてないよ」
「高園さんは自己評価低すぎ。あなたは出来て当然と思っていることって、なかなか難易度高いですよ。あなただからこなせたんです」
「えぇ……」
晴馬の口調は淡々としていて、叱られているような気分になってくる。倫はしゅんと体を縮こまらせた。
「もー。もっと胸を張ってください」
「はい……」
「まあ、そういう慎み深いところも、高園さんの良さだと思いますけどね」
やっぱり褒めてくれていた。社会人になってから、こんなことは滅多にない。
嬉しいが少し恥ずかしくなって、倫は口を噤む。晴馬も黙って、手元の紙コップに入ったコーヒーを飲んだ。
沈黙が、二人の間に降りてくる。祝賀会の華やかな騒ぎに疲れていた倫にとって、今のこの静けさは心地良かった。
時刻は二十一時。フロアには誰も残っていない。今日くらいオフィスになど戻らず、みんなで飲みに行くか、またはまっすぐ家に帰るのだろう。
――確かに、早く帰りたいかも……。
「高園さん?」
心配そうな晴馬の声で、倫は我に返った。ついつい自分の世界へ、深く入り込み過ぎてしまったようだ。
「ごめん。ちょっとぼうっとしちゃった」
「お疲れなんですね。これまでずっと忙しかったから……」
「ああ、いや……うん……」
忙しい。そう、忙しいのだ。仕事ばっかりの毎日である。それはそれで充実していたと思うが、女としては乾いているかもしれない。
癒されたいが、なにをすればいいのだろう。
エステとか、ヨガとか、旅行とか? 美味しいものを食べたり、飲んだり?
――どれもこれも、ピンとこない。
ますますうわの空になっていく倫に構わず、晴馬は話し続けた。
「お疲れのところ申し訳ないんですけど、もう少しおつき合いいただいていいですか?」
「あ、うん。なあに?」
「これなんですけど」
そう言って、晴馬は倫のやつれた笑顔の前に、なにやらピンク色のもこもこした塊を差し出した。
「?」
倫は晴馬からもこもこを受け取り、眺め回す。それは鎖で繋がれた、二つの輪っかだった。もこもこしたものはフェイクファーで、輪の周りをくるんでいる。
「???」
いったい、これはなんだ。
椅子から立ち、後ろに回った晴馬を、倫は座ったまま不思議そうに見上げた。
「なに、これ?」
「これはですね……。あ、一旦返してください。んで、椅子の後ろに手を寄越してくれますか」
「うんうん? こう?」
博士の実験につき合う助手のように、倫は従順に、なにも考えず、晴馬に従った。輪っかを晴馬に返してから、言われたとおり、椅子の背もたれを後ろで抱えるように、両手を回す。
晴馬はごそごそと、倫の背後でなにかしているようだ。見えないから分からないが、手首がくすぐったい。先ほどの輪を包んでいた、ピンクのファーの感触だろうか。
そして、カチリと金属音がして……。
「…………………………………………?」
気づけば、手が動かせなくなっていた。ぼやっとしていた倫の頭の中に、せき止められていた水のように、思考がゆるゆる流れ落ちていく。
そうだ、あれは。先ほどのあれは。
ピンクでもこもこの可愛いナリをしていたが、よく考えたら――手錠ではないか。
物騒なその正体をようやく理解し、倫の顔からはさあっと血の気が引いた。
「日比野、くん……?」
倫は後ろ手を拘束されている不自由な格好で、恐る恐る晴馬を振り返った。
晴馬は微笑んでいる。パーティーの終盤、壇上にいた彼と目が合った――あのときの爽やかな笑顔、そのままだった。
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