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 ――あれは、五月になったばかりだというのに、ひどく蒸し暑い夜のことだった。 「あつー……」  ブラウスのボタンを二つ目まで外し、緩んだ胸元をパタパタと上下させて風を送る。しかしムシムシした気流が肌を嘗めただけで、涼しくもなんともなかった。ただただ、だらしない格好になっただけだ。  まあただでさえ人通りの少ない住宅街の小道でのことで、時間も九時を過ぎているから誰もいないし、どうでもいいが。  ――ほんっと、どーでもいい……。  解放的というよりは捨て鉢な気分で、高園 倫は大量のアルコール成分が混ざったため息をついた。  空は曇り、月も星も見えない。湿っぽく重たい空気の中を進む倫の足取りは、ふらふらと少々頼りなかった。  酔っているのだ。  ――ちょっと呑み過ぎたかな。  本日の宴席の主役は、倫と同期の男性だった。さる大きなプロジェクトのサブリーダーに着任し、支社へ移ることになったのだ。  ――みんな、先に行ってしまうなあ。  胸に鈍い痛みが走る。  覚悟はしていたつもりだった。倫は経済的な都合で進学できず、高校卒業後すぐに就職した。今年で勤続二年目になる。  大卒と高卒では、昇進のスピードに差がつく。分かっていたつもりだったが、実際に同じ年に入った仲間たちがどんどん先に出世していくのを見ていると、どうしても不安になってしまう。  ――取り残されていく。自分の将来はどうなるんだろう?  ずっと今いる総務部で、言っては悪いが簡単な書類を作ったり、電話を取って回したり、備品の補充をしたり、そんなことを繰り返すだけなのだろうか。  高校までの成績は、決して悪くはなかったのだ。しかし母から、進学を諦めるよう諭された。兄と弟を大学へやるためには、娘である倫に我慢してもらうしかないのだと。 『あんたは女の子なんだから』  不公平だと思ったが、だが母が言わんとしていることも、倫はよく分かった。だから従うしかなかったのだ。  ――だけど、どうして私だけが我慢しなければいけなかったの。  あの当時のことを思い出すと、腸がぐつぐつ煮える。納得したつもりだったが、実はそんなことはなかったのか。  ――やめよう。  気分を落ち着かせるために、倫は首を振った。  大学には行かず就職することを、最終的に選んだのは自分だ。奨学金を得るという手段だってあったのに、しかし学生の身分でいわば多額の「借金」を負うことが怖かったし、だいたい特に勉強したいことだってなかった。  だから、働くことを選んだのだ。  ――流されたのは自分なんだから、文句を言う資格なんてないよねえ。  それに、今が不幸というわけでもない。ちゃんと正社員の職にも就けたし、職場の環境だって悪くない。同僚はいい人ばかりだし、若い倫を可愛がってくれている。  ――キャリアアップのことなんか考えるのは、もっと完璧に仕事をこなせるようになってからの話だよ、うん。  そう自分に言い聞かせてから、倫は胸の内側を、星ひとつない今夜の空色と同じく真っ黒に塗り潰し、歩いた。  ――とりあえず今は、これ以上、なにも考えたくない。  無心で歩いているうちに、前方が騒がしくなった。はだけた胸元を隠し、目を凝らすと、複数の人影が見える。少年たちが数人集まり、なにやらはしゃいでいるようだ。  ――うわ、やだなあ……。  絡まれたりでもしたらかなわない。夜道で、こちらは女の一人歩きだから、倫は警戒しつつ、少年たちの脇を通り過ぎた。  少年たちは倫に目もくれず、なにかに夢中になっている。彼らの様子が気になった倫は、数歩先で振り返った。  外灯が少年たちを照らし出す。  彼ら三人の前にもう一人、別の男の子が、後ろの塀に寄りかかり、足を投げ出すように座っていた。地面に尻をつけている少年も、その前を取り囲んでいる少年たちも、皆同じ、見覚えのある制服を着ていた。 「ほらあ、晴馬ちゃあん。もう殴られるの嫌でしょ? とっととお金持って来てぇん」 「持ってきたら、おまえと遊んでやってもいいぜ」 「えー、俺やだなー。金もらっても、こんなキモイのと歩くの」  言いたい放題の相手たちを、一人地面に座っている少年は見ようともせず、うなだれたままだ。 「お金なんてないよ……」  蚊の鳴くような声で「晴馬」と呼ばれた少年が答えると、その数倍以上の声量でほかの少年たちが罵り始めた。 「はあ? なければないで作れよ! おまえ、賢いんだろー? なんだっけ、投資とかあ? ジジイババア騙す詐欺とかさあ!」 「暑くて、ご自慢の頭が回らなくなっちゃったー?」 「そうだ、涼しくしてやろうぜ!」  一人が持っていたコーヒーの缶を傾けた。飲み口から茶色の液体がこぼれ、晴馬の頭を汚していく。 「あ、俺も俺も! 飲みきれなかったんだよねー!」  残りの二人も、持っていた缶の中身を、力なく座ったままの晴馬にかけ始めた。 「ほら、これで涼しくなったね!」  ――ひどい……!  どっと笑う少年たちを見て、倫は咄嗟にカバンから携帯電話を取り出した。  普段こういった修羅場に遭遇したら、倫は華麗に見て見ぬふりを決め込むタイプである。だがこの日はアルコールのせいで、「どんな悪も許さない!」と、やたら気が大きくなっていた。 「不良っぽい子たちが、少年を暴行しています! あの制服は、K大付属高校のものだと思います! お巡りさん! 早く来てください!」  「110」をダイヤルすると、すぐに繋がった。  わざと周りに聞こえるような大声で訴えていると、少年たちが慌てふためき始める。  K大付属高校は金持ちの子息令嬢が通う進学校として有名で、だから恐らく少年たちも根っからの悪童というわけではなく、警察沙汰に巻き込まれるのを厭うタイプだろう。 「おい、やべえぞ……!」  お互いの顔を見合った少年たちは、虐げていた一人を残し、脱兎の如く逃げ出した。 「ふう……」  倫はほっと胸を撫で下ろすと、電話の向こう側へ、少年たちがいなくなったことを伝えた。通報先のオペレーターは、親切にも警官を向かわせようかと申し出てくれたが、倫は謹んで辞退した。――あまり大事にしてしまうのは面倒くさい。  礼を言って電話を切ると、倫は一人残された少年に近づいていった。 「…………」  少年はぐったりと動かない。 「大丈夫? ひどくやられてたみたいだけど、どこかケガしてない?」 「……大丈夫、です」  少年はか細く答えたが、顔を上げようともしなかった。もしかしたら助けてはいけなかったのだろうか。そんな気さえ起きる。 「えーと……」  倫は迷った。勢いでつい関わってみたが、あれは一体どういう状況だったのだろう。  ――いわゆる、「いじめ」というやつだろうか。 「……………………」  倫は座り込んだままの少年を、哀れみの目で見下ろした。  少年の頭からジャケットまでは、先ほどかけられた缶ジュースやコーヒーのせいでびっしょり濡れている。他の部分も、蹴られたのか靴底のあとがついていたり、土や埃で汚れていた。もう止まったようだが、顔も鼻血で汚れ、悲惨な有様だ。 「立てる?」 「……………」 「ほら」  手を差し伸べると、少年はわずかに顔を上げて、倫のそれを掴もうとした。が、直前で躊躇したのか、ぴたりと動きを止める。女の人にさわっていいのかと、その辺りは年頃の男の子らしい遠慮があるのだろう。 「よいしょっと」  倫は構わず少年の手を取ると、ぐっと引っ張り上げた。それに促されるようにして、少年はぐずぐずと立ち上がった。 「家はこの近くなの?」 「……電車で八つ先です」 「その格好で帰るには遠いね……。おうちの人に迎えに来てもらう?」 「いえ……」 「でもそれで電車に乗るのはキツイでしょう?」 「……親に心配かけたくないから、一人で帰ります」 「うーん……」  倫はしばらく腕を組んで考え込んでから、しょうがなく決断した。 「私のアパートこの近くだから、とりあえずおいで」 「え……」 「一人暮らしだから、気は使わないで。とりあえずシャワー浴びたほうがいいよ」 「…………」  少年は髪がやや長く、眼鏡をかけている。ひょろひょろと背ばかり高い、痩せた男の子だった。  印象はなんというか――弱そう。それに尽きる。  そのうえ先ほど受けた暴力のせいかすっかり意気消沈しているし、このような子ならば部屋に連れ帰っても危険はないだろうと、倫は判断したのだった。 「ほら早くおいで。帰りが遅くなったら、ご両親が心配するでしょう?」  倫は少年の腕を掴むと、ぐいぐい引っ張りながら先に進んだ。少年は戸惑いつつも根負けした様子で、渋々と倫について行った。  シャツは洗濯機に放り込めば何とかなりそうだが、ジャケットはどうだろう。とりあえずよく絞った濡れ布巾で叩いてみたが、汚れは完全には落ちなかった。それでもだいぶ綺麗になったろう。 「素人が下手にいじると、ややこしいシミになっちゃうかもしれないし……。帰ったら、早めにクリーニングに出しなね」 「……はい」  シャワーから出てきたばかりの少年には、倫のTシャツとハーフパンツを着てもらった。大きめのものを貸したとはいえ、少年は問題なくそれらを身につけている。やはり彼は、かなり華奢なのだ。  男ものの下着はさすがにないので、それだけは少年の自前をそのまま履かせている。  ひととおり落ち着く頃には、九時を回っていた。  倫は冷蔵庫からペットボトルのお茶を二人分出し、一本を少年に渡した。 「どうぞ」 「……ありがとうございます」  八畳の寝室兼リビングの床に、二人で向かい合わせに座っている。少年がお茶を一口二口飲むのを見届けてから、倫は切り出した。 「さっきの、ちゃんと警察呼んだほうが良かったかな?」  少年は弱々しく首を横に振った。 「あれって――いじめ、とか?」 「そんなんじゃありません!」 「いじめ」という単語が出た途端、少年は弾かれたように叫んだ。先ほどまでのおどおどした様子から一変した彼に、倫は驚いた。 「いじめなんて、俺があんな奴らに……!? なに言ってるんですか! 違う! そんなんじゃありませんよ! あんな奴ら――あんなゴミどもに、俺がいじめられてるなんて、あるわけない! あんな、一人じゃなにもできないクズどもに……!」 「いじめ」というワードは地雷だったようだ。  怯えているのに、それでも口元は無理に笑みを作ろうとしているから、少年の顔はひどく歪んでしまった。大きく張った声も、よく聞けば震えている。  余裕を見せようとして、まるっきり失敗している少年の姿は、倫の目にとても痛々しく映った。 「あいつらは、俺を貶めようとしているみたいだけど! こんなの、たいしたことありませんよ!」  ――虚勢。  自尊心が認めないのだ。
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