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はじまり
海の近くにあるモールエントランスには、呑気に二本のココヤシが背伸びをしている。
「店員さんすいません。この、テディベアなんですが」
オーシャンモールと呼ばれるショッピングモールの二階、そのおもちゃ売場で髪を後ろに整えた男性が店員に申し訳なさそうに尋ねた。
一方、若い女性のアルバイトの店員は勤務数日にしてこの職場にうんざりしている所だった。ため息をつき、振り返る。
「は、はい。どうされましたか」
店員の声が上ずる。
声をかけてきた男は目が冴えるような見目をしていた。三十半ばに見えるが、年相応に経験を積んできた立派な成人男性だ。後ろに纏めた髪が多少ほつれているのも、色っぽく見える。
「あの、すいません」
見とれていた店員はハッとする。
「ええ、はい。ご用件をお伺いします」
男、尾府手崇は先ほどまで店員がいじっていた棚を指す。その中に窮屈そうに詰め込まれた大きな白い熊のぬいぐるみがあった。
「いま、その。白い熊のぬいぐるみって、子供に人気のやつですかね」
奇妙な質問だったが、店員は何度も聞かれた問いだったのでにすぐ反応できた。
「最新の×社のぬいぐるみはこちらではありません。これは型落ちのになります。最新のものはあちらです。ご案内しましょうか」
「えっ。そうなんですか」
またもや想定した反応に、店員は少々うんざりしたが笑顔は崩さなかった。
「お子様へのプレゼントで大人気なんですよ」
尾府手は店員の視線の先を見た。
日曜日のおもちゃストアの入り口ド真ん前、その棚には目の前のテディベアと何ら変わらないものが大量に乗せられている。しかし、向こうは大人気でこっちは誰も見向きもしない。
なにがどう違うんだ、尾府手は疲労の溜まった頭をかいた。
「なにか特別な違いがあるんですか。あれと、これ」
「そうですね。素材はどちらもアンゴラ山羊100%のモヘアですが、あちらは×社特製の加工が施されています」
聞いても分からず、思わずため息が出てしまう。
娘の誕生日に喜ぶものをと、ふらっとこのモールに立ち寄ったは良いものの、上手くいかないものだ。
最近出来たからか人も多いし、日曜日の昼は特に混んでいる。
尾府手が黙っていると、視線を感じて今度はこちらがハッとした。
「すいません」
反射的に謝るが、店員は笑顔のままだ。
「いいえ。どうぞ、ご案内しますね」
人気のテディベアの方へと誘導しようとしたが、尾府手は動かなかった。
「こ、これでいいです」
「えっ」
「ああ。これが、いいです」
言いきってしまうと、もう尾府手は引き返せなかった。
「こ、こちらで宜しいんですか」
店員が白い大きなテディベアを抱き込み、尾府手は自分に言い聞かせるように頷いた。しかし、頭には汗が流れている。
「これが、いいんです」
「お子様へのプレゼントで、宜しいんですよね」
「あ、はい」
「余計なお世話かもしれませんが、一度お子さまにご確認されてはどうでしょうか」
「えっ」
思わず尾府手は聞き返す。
「ここ数日で取り違いのお客様が多発しております。当店はキャンセル不可です。ご了承頂けたら」
矢継ぎ早に店員があくまで柔らかく言いのける。
NOとは言えない雰囲気に、尾府手は滅法弱い。しかし、この男は妙なところで思い切りが良く空気が読めなかった。
尾府手は懐から徐に携帯を取りだし、いそいそと店員の前で操作を始める。
「いまから確認しますから」
ここでするつもりか、と店員が内心驚いた。操作は焦ってはいるがどうにも遅い。
見てくれは良くても身勝手な客には変わりない。この場から逃れるタイミングを店員は探していた。
「では、準備が出来次第係の者にお申し付け下さい」
「ちょっ、ちょっと待って……」
その場を去ろうとした時だった。
「ここにいる全員、動くんじゃねえぞ」
このショッピングモール全体に響き渡るのは、尋常ではない慟哭だった。引っ張られるようにモール内全ての人間が声の元へと意識を向ける。
モール一階のエントランスからだった。
リュックサックを胸に抱えた小柄な男がおり、キャップを目深に被っている。周囲は最初だけ緊張が走った。だが、その後ゆっくりと彼の外見を見て、好奇心へと変わっていった。
不躾な視線、不快感を隠そうともしない無数の目線に、小柄な男よりも周囲が呑まれていた。ざわめきは段々と大きくなる。
「君、迷惑だよ」
警備員が困った風に駆け寄った時。更には、おずおずとやってきた尾府手が下を覗いた時だった。
形容しがたい破裂音に、ざわめきは搔き消えた。
発砲音だ。誰が言うともなく周囲は、男が手にしていた拳銃を見て判断した。
悲鳴から慌ただしい足音、そして怒号になるまでは一瞬の来事だった。エントランスが嵐に包まれるのを、尾府手は茫然と見ているしかない。さっきまで対応していた店員は走り去り、モールは混沌に包まれた。
尾府手も逃げようとした時だった。
おかしいな、と違和感を覚える。自分だけ静寂に取り残されたようだった。
モールを襲った男の、困惑の表情。そこにあどけなさを感じた。新入社員を見ているような、そんな初々しさだ。犯人に対して抱く感情ではないことは承知している。
「わっ」
考えにふけっていると、背中から強い力で押された。
尾府手の体は二階からエントランスを見渡せる位置、その手摺へと近づいていたのだった。そこを、後ろから押してきた力にやられて、前のめりになる。
不意の衝撃に、尾府手は無防備だった。
二階から放り出された尾府手は落下した。しかし、尾府手の視界にはあまりにもゆっくりに動いて見える。犯人の男の驚いた顔に、笑う余裕すらあった。そして、そのままエントランスのココヤシにぶつかった。
「大丈夫か!」
犯人の男の叫び声は届かない。尾府手は体への痛みと恐怖で何も考えられなかった。
いま、背中を押したのは逃げていった客が当たったのか。
尾府手は確認する暇もなく、力尽きて落ちていった更なる衝撃と暗転に、尾府手の意識は遠のく。
「おぐぅ」
呻きが口から漏れる。
背中から落ちたから致命傷は避けられたろうが、痛みで自由が利かない状況だった。
しばしの沈黙が流れ、犯人の男の声は段々と鮮明になっていく。
「どうなっているんだ、これは。おいあんた、起きろ」
体を思いの外優しく揺さぶられる。しかし、尾府手は目を開けることが出来なかった。男に対する恐怖よりも、痛みのせいだ。
ココヤシにぶつかっていなかったら、悲惨な最期を迎えていたかもしれない。
「や、やめてくれ」
頭に痺れが走り、尾府手は小さく呻く。
「頼む、起きてくれ」
情けない懇願に、尾府手は耳を疑った。
「ああ、なんだ」
「ショッピングモールが変なんだ」
「おお、う」
どこが、なんだって。
「急に、誰もいなくなってしまった」
オーシャンショッピングモールを襲った男、日江あさはゆっくりと立ち上がった。
さっきまで逃げまどっていた人々は、影も形もなくなっていた。突然だった。二階から落ちる男に気を取られて、集中が切れたその後のことだった。
がらんどうのショッピングモールの中で、日江は倒れる尾府手を見下ろす。唾をのみ込む音すら異様に大きく感じた。
このショッピングモールはやはり呪われているのだ。
親友の命を食ったこのショッピングモールは。
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