9章1話 バースデイ

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9章1話 バースデイ

【新帝国歴1141年2月1日 若葉】  こんな喩え話から始めさせて欲しい。  壊れたおもちゃの兵隊さん、金色ボタンに真っ黒長靴、でも全身傷だらけ。今はゴミ捨て場にいる。  そこで見つけた、同じように壊れたおもちゃの女の子に恋をした。世界が終わるまで一緒にいたい、そこに二人で留まっていたいと思ってしまった。  かわいそうなおもちゃの兵隊さん、誰か親切な人が拾い上げてくれれば、埃を払って汚れを落としてくれれば、あなたはまだおもちゃ箱に戻れるかもしれないのに。  だけど彼自身が、またおもちゃ箱に戻りたいと、他のおもちゃと同じようになりたいと、そう思わなければならないのか?  急に何の話をしているのか、きっと分からないと思う。だけど彼って、本当にそんな感じなのだ。  エックハルトの寝室に、『私』は一人で立っていた。  白いシーツの上に彼は横たわっている。その目は閉じられていて、夢のない眠りの中に落ちているかのようだ。服装は白いシャツに、黒のズボン。つまり、着のみ着のまま、上着を脱いで襟を解いただけで寝てしまっている、多分そういうことだ。  それから、過去にどこかで嗅いだことのある、揮発性の芳香が部屋の中に漂っている。  私はランデフェルト公国の公妃であり、彼は重要な臣下の一人。だから、私たちの話し合いには同席しないでくれと、人払いを頼む程度は造作もないことだった。なぜかって、彼には重要な話があった。  年が明けて今は、新帝国暦1141年。本当は、もっと早くに来なければならなかったのだ。彼の『健康状態』の噂を聞いた頃から。だが私は動けなかった。赤ん坊の娘に手が掛かるし、その他の理由でも多忙を極めていたし。  と言っても、今は娘も少し大きくなったし、それ以外の忙しさも少し緩んだ今になって、やっとこの訪問に至ったのだ。  それが私と言っていいのだろうかと、私は思う。私は、私であって、私ではない。またそんな風に考えることが、もう一度あるとは思っていなかったのだが。  私はエックハルトの額を撫でる。  冷えた汗の感触を、私は掌に感じる。  エックハルトの外貌は、昔と変わっていた。遠目にはあまり変わらないと思えていたのだが、こうして近くから見ると、頬は前よりこけていたし、眼窩は前より深くなっていたし、肌の色は幽霊のよう、きめの細かさも残念ながら悪くなっていた。  私は彼の年齢を数えてみる。誕生日は、リヒャルトが1月23日。アリーシャが3月5日。そしてエックハルトの誕生日は、1月8日ということになっている、それは彼が公宮に拾われた日だ。だがそれは計算が合わず、本当はもう少し前ということになるのだろう。そして、今は2月1日。だから、つまり彼はもう40歳だ。容色に衰えが出ていても仕方のない年齢だ。  40歳になるってどういう感じなんだろう。私は今まで経験したことがなかったし、きっと分からない、これからも。  それから、彼の人生に降り掛かった呪いのような、絞めた痕のような首の痣。私は人差し指だけでその線をなぞる、さりげない動作を装って、でも内心は恐る恐る。 「……あなたでしたか」  そんな風に彼は、口を開く。まるで全く眠っていなかったかのような、はっきりした声で。  何と答えを返すべきだろうか、私は少し迷ってから、意を決する。 「……私のことはどうでもいいの。あなたに、話があって来ました。その『健康状態』とやら、その話について」 「何か、言いたいことでも?」 「はぐらかさないでよ。また、なんでしょ。なんで。どうして。止められなかったの? そんなに意志が弱いわけじゃなかったでしょ? 今までずっと大丈夫だったのに、今になってなんで」  彼の悪癖だ。薬物中毒。  体調を崩すというエックハルトだが、全く問題のない期間と、病がちな期間を繰り返している。それは、昔もあったことだ。エックハルトはトラウマから来る問題行動の手っ取り早い解決手段に、水パイプによる薬物摂取を嗜んでいた。昔と違うのは、一年の決まったある数日間だけではなくて、それが不定期に、年に何度かあるということだ。  つまり、一度は回復したかに見えたエックハルトの魂は、再び擦り切れてきている。孤立を望んでいるかのような身の振り方と、彼の年齢を考えると、これは決して良くない傾向だった。だから、私は今になって、やっと彼の元を訪れた。もうこんなことがあるとは思っていなかったのだが。  しかし、エックハルトは笑う。まるで付き纏っていた悲しみから不意に解放される可能性が見えたみたいな、そんな笑顔だった。 「やっぱり、あなただ。もう会えないかと思っていた。消えてしまったのかと、ずっと思っていた、ずっと」 「…………ちょっ!」  無理矢理押し倒されたわけではないとは思う。だけど彼に抱きつかれて、その案外強い力に私は思わず身を倒してしまう。このヤク中男と同じベッドに身を横たえるのはいろいろと拙い状況だ。 「……あのさ、止めてくれないかな? 私今、人妻なんですけど」 「それはあなたじゃないでしょう。アリーシャ殿がそうだというだけで」 「…………」  私は黙ってしまう。この男はいつもそうだ。私が私でいる時、いつだってそれを見抜いてくる。 「最初は、アリーシャ殿のふりをしてましたね。なかなか面白かったですよ」 「……そんな話をしにきたんじゃないんですけど」  私は身を起こし、彼の傍らに座り直す。  消えてしまった。ある意味ではほとんど、そうなんだろう。  この話をするためには、まず、きっと疑問に思われている、あるいは薄々感づかれているかもしれないいくつかのことを整理しておく必要がある。  多重人格なのだ。アリーシャと私、『新井若葉』として自分のことを考え、喋っている、もう一人の人格であるこの私は。  解離性人格障害。強いストレスが引き金になって起こる、自己の経験を複数の人格に分担させる、ある種の精神疾患だ。  人格分裂の原因は、別の世界で死んだ人間、新井若葉の死の瞬間の記憶と、それ以前の人生の記憶が流れ込んできたことだ。人格は自己認識から、自己認識は人生の記憶から構成されるのだから、私、新井若葉という人格がアリーシャの中で形成されていくのは自然な流れだった。それが、エックハルトの問題行動に対処する必要に直面して、一気に表出したために、私は私になった。  記憶の流入の原因の方は、私にも分からない。死んだ新井若葉の魂が転生したのかもしれないし、そうでないかもしれない。だけど、この私である『新井若葉』は、あくまでもアリーシャの人格の一つだ、私はそう判断している。  なぜかって? 私とアリーシャの人格が区別できない時間があるからだ。記憶が戻ってからはしばらくそうだったし、若葉として喋ったり動いていたのは、実質的には数年間で、それも限られた時間だった。  アリーシャが成長するほど、私が表に出る時間は短くなっていった。だって多重人格は、あくまで『真の自分』を守るための、あくまで便宜的な本能の自己欺瞞だ。この場合の『真の自分』はアリーシャで、アリーシャは私に守られる必要はない位に強くなっていったのだから。私の段階的な消失は意志によるものではなく、二人分の人格を保っているのは精神的に物凄いエネルギーを喰うからだ。そのエネルギーを供給するのは、一人で受け止めたらズタズタにされかねないほどの強い不幸の記憶とストレスで、私の場合は自分の死、そして、二人分の記憶が一人の中にあること自体のストレスだった。アリーシャは幸せになりつつあったし、若葉の記憶を次第に自分の中で整理できたし、死の恐怖、運命への憤り、虚しさは次第に薄れていった。だから年月とともに私は若葉ではいられなくなる、それは自然な流れだった。  だから、蒸気機関車の公開実験の前から既に、私は私としての自己認識を自在に起動することは次第に困難になっていることを感じていた。だけどその頃はまだ、私にとっての外の世界の出来事は、遠くで流れている映像を他人事として傍観しているような、あるいは眠っているような感じだった。それも、今は違う。ほとんどの時間、私はアリーシャの心で考え、感じ、判断を下している。若葉の記憶は、アリーシャの人格が直接理解し、利用することができるアーカイブになったのだ。だから今の私はもう、アリーシャの一部でしかない。  これは不幸なことではないのだ。人間は些細な理由でも死ぬものだし、また生きている人間は自分一人の人生を一番幸せにするように生きるものだし、私はアリーシャなのだ、本当は。新井若葉にとっては、死んだ後も自分の存在の爪痕を世界に、自分の世界ではなくて別の世界だけど、残すことができたのだから、幸せなことなのだろう。私は自分にそう言い聞かせていた。  じゃあ、なんで今、こうして若葉として喋っているのかって? この男のせいだ。きっとまた駄目になっている、本当にどうしようもない男に、別の意味でどうしようもない自分が抱いてしまう、これまたどうしようもない同情が、再び若葉として意識する明確な自分を呼び覚ました。それが、ここに私が存在している経緯だ。 「……そもそもが、元はと言えばあなたのせいなんですからね。私がこうしてしゃしゃり出て来ざるを得なくなったのは。アリーシャがアリーシャとして対処するには、あなたがあまりにもアレだったから」 「じゃあ、意味があったんだ。私の人生も」 「いい加減にしなさい」 「一つ、聞いていいですか?」 「何?」 「アレって何ですか?」 「……幼稚な拗らせ野郎」 「……違いない」  そう、幼稚だったのだ、この男はずっと。知性、判断力、精神力、気力、そういうものが成長しても、情緒だけは成長しないままだった。それがいろいろあったし、年月も経って少しは成長したのかと思ったけど、勘違いだったのかもしれない。 「……あのね、水パイプはもうやめて。控え目にするんじゃなくて、完全にやめて。どうしても思い切れないなら窓から投げ捨てて。あなたができないんだったら私がやるから。前に言った通りじゃん、だんだん数日じゃ済まなくなるって」 「それで来てくれたんですか」 「そう。あんたのせい。あんたがそうやってグダグダになってると、こっちはおちおち死んでもいられないわけ。困るんだわ」 「……なんで、そんなこと言うんだ」  エックハルトは起き上がる。彼の声のトーンは、いつもの飄々とした、人を食ったような感じではなくなっていた。 「自分は死んでいた方がいい、みたいな言い方はやめてください。あなたの人生はあなたのものだ、そうだったはずだ。それを全部が全部、彼女に手渡してしまった。何の見返りもない、それは仕方ない。でも、あなた自身がそうやって、自分の存在を消そうとする必要まであったんですか。それを言うなら私だって同じだ。自分の人生を自分で壊そうと、私の勝手でしょう」  私は怯んでしまう。この人は頭がいい、たとえヤク中に陥ってようと。 「……ごめん」 「……すみません」  謝る私に、俯いて謝罪を口にするエックハルト。  人には容易に理解されない彼の純粋な内面を、私はその表情に見る。だが今は、そこにすら陰鬱な影が差していた。 「……アリーシャのせいじゃない。彼女を嫌わないであげて。私も、私がアリーシャなのか、そうでないのか、本当には分からないんだ」 「そこだ。誰も悪くはない、だけど全ては集約されていく。彼女に、そして彼に」  それから、エックハルトは顔を両手で擦るのだ。 「私は幼稚な人間ですよ。こんなに年月を経て、年老いたと言ってもいい。だけど、少年時代に兆した愚かで、身の程知らずな嫉妬心からいまだに解放されていないんだ。あなたが彼女の一部でしかないのなら、私が一番愛するあなたすら、彼のものになったということだ。全ては彼のもので、そしてあなたはどこにもいない。愛しているのに。彼のことだって、私は。でももう、彼は私を必要としていない。私は不要な存在だ。もういいでしょう、お守りはお終いで、私は御役御免だ」  私は閉口してしまう。  エックハルトは、リヒャルト様にも、アリーシャにもどこかしら棘があって、ひねくれた物言いをする人だ。だけど私にはずっといい子で、私の方がいつも突っかかっていた。今日もそうだった。それなのに今は、エックハルトの方が私に突っかかる物言いをしている。最初はあんなに嬉しそうだったのに、私の言葉のせいで。 「どうしたらいい。なんで。どうして。そんな。なんで私なの。私なんかを愛するために、そんな風に身も心もボロボロにする必要なんてない、そうだよ」  だって愛するとか愛されるとか、それ自体が新井若葉の生きていた人生で、問題になったことなんてなかった。だからそんなことが私の手に負えるわけがない。生きている間愛されているなんてずっと思えなかった私を、それが大きな問題になってから愛している、なんて。  そうだ、問題だ。私を愛している、そんなのきっと、タチの悪い勘違いで、そんな悪い夢からは目を覚まさなければならないはずだ。私は決意する。私の義務として、それを否定しなければ。私には愛なんて分からない。分かることと言えば、このままではこの人が幸せになれないということだけだ。 「……たまたまあなたの人生で、すっぽりどこかのポジションに収まっただけの人間を愛するために人生を棒に振る必要なんてない。愛なんて、人間が自分の幸福のために便宜的に作り出した脳の錯覚でしょ? ドーパミンさえ出ればそれでいいんだったら、考え方さえ変えれば、誰のことだって愛せるじゃない」 「そんな考え方するんですか」 「何、どうかした? あなたはこの世界で、幸せな人生を作り上げないとならないの。そんなの全然できるはずなのに、不毛な方の選択肢に拘って同じ場所に留まっていたら駄目なの。分かるでしょ? まだ手遅れじゃない、だって男だし、何よりまだ生きてるんだから」  少しだけ彼は黙って、それから私の方に手を伸ばす。 「……そんな理屈は通らない、どう考えても。愛が錯覚でしかないのなら、幸福だって錯覚でしかない。愛でなくて幸福を優先しなければならない理由はどこにもない。だとしたらそれを選ぶのは意志だけだ。人間は自由のはずだ、誰を愛して、何を幸福とするか」 「…………」  私は黙る。この男には口では勝てない、そうだった。  エックハルトは指で、私の頬を撫でる。 「あなたがいれば、私は幸せだ。前にもそう言った。あなたが存在していない世界に、私はもう、耐えられそうにないんです。だけどあなたは存在している、こうして。私は、どう考えたらいいですか」 「……そんなの、分かんないよ」  もう、私の頭も沸騰しそうだった。 「私にはもう、できることはないの。チャンスなんてもう、これっきりしかないと思う。……本当に、どうしたらいい。あなたがその、愚行を止めてくれるには」  苦しい。何故か分からないけど、涙が滲んできそうになる。そんな風に思いながら、とにかく私は必死だった。 「……分かりません」  エックハルトは視線を床に落とす。 「なんで! 本当さ、私を困らせないで!」 「そうだ。あなたを困らせている。苦しめている。それしかできないんだ」  エックハルトは顔を覆う。私は彼を、ただ見つめることしかできない。  あらかじめ言っておきたい、ここからのエックハルトの様子、あるいは彼に対する私の見方について、少し違和感を覚える人もいるかもしれない。だけど、これが彼なのだ、私にとっては。普段は見栄っ張りで気取り屋で、でも本当は、子供みたいな人だった。  そんな風な、狂おしい響きでエックハルトは続けるのだ。 「……あなたが彼女とは違う人間で、だから全部問題はないんだ。僕はそう思い込もうとしていた。だけど違うんだ。あなたはきっと彼女の一部で、だけど自分が消えたみたいな顔をして、別の人と幸せになっている。それなのに、こっちはずっとあなたに恋焦がれている。不公平だったよ。忘れさせて欲しかった。彼を愛している、お前じゃない、だからお前は消えろと言って欲しかった。彼女じゃなくて、あなた自身の言葉で」 「……無理、だよ。そんなの。だって、私は。あなたは」  エックハルトの言っていることはおかしい、そう私は思う。だって、彼はアリーシャとリヒャルト様の結婚に尽力していた、実際には。アリーシャがその階級ゆえに侮られることのないように何重か手を回していた。そのために彼は、災厄撃退の件を最大限利用して一種の英雄譚に仕立て上げることまでしていた。  本当の英雄は私達しか知らない。それはアリーシャでもなく、エックハルトでもなく、それから私でもない。私だけど私じゃない、あれを止めたのは。  それに、その後のエックハルトは、決して私の話を持ち出そうとはしなかった。彼の人間関係のことはよく分からないけど、精進潔斎して禁欲生活に努めていたわけでもない、つまり誰かしらお相手はいたんじゃないかと思う。誰かがそんな話をしているのをおぼろに伝え聞いて、私は(アリーシャ、あるいはアリーシャの内面に残った若葉の溶け残りとしての私は)彼も幸せになる決心をしたのだろうと、そう思い込んでいた。  エックハルトに傍目で分かるほど陰鬱な影が降りてきたのはこの何年かのことだ。それも張り詰めていて刺すような、生き続ける意志の裏返しみたいな陰鬱さじゃなくて、本当に辛そうな陰鬱さだった。  エックハルトは、ずっと自己欺瞞していたのだろうか。私はアリーシャではなくて、そして私はアリーシャの幸せを望んでいて、だからアリーシャの幸せのために尽力することが私のためになると、そう思って行動していたのか。でも欺瞞なのか、それは? その考え方自体は正しいんじゃないの? でもそう思い続けるには、私の方がアリーシャの人生に溶け込もうとしすぎていた。そう、自分の人格を放棄してまで。 「本当は幸せにしたかった。僕がしたことで、あなたに喜んで欲しかった。そうなりたかった。だけど、それはできない。僕は幸せにはなれない。そういう生まれつきで、運命なんだ。諦めるしかない」 「…………」  私は何も、言葉を返せなくなる。昔、アリーシャを公妾の座に据える手筈に一枚噛んでいたらしきエックハルトを詰った私に、彼はなんて言ってたっけ? 『私だって、やりたくてやっているわけじゃない。与えられた義務を果たさなければ私は無だ。私がやりたいようにやったら、どうなると思いますか? 想像したくないでしょう、あなただって』  やりたいようにやる、それが今の言葉だとすれば。幸せにしたい、アリーシャじゃなくて、この私を?  こんなに愛してくれた人を、私はどれだけ傷付けてきたんだろうか。私だって幸せになる方法なんて分からない、それなのにエックハルトには、ありきたりな幸せの形を押し付けている。  幸せにしたい、それは、なんて美しい概念なんだろうか。こんなにも祝福されない存在の自分だって、この人を幸せに出来れば、それだけでどんな瞬間より幸せだと、そんな風に信じられるのだったら。  私は苦しい息を吐いて、吸う。 (ねえ、エックハルト。私だってあなたを幸せにしたいよ。だけどできないんだよ)  そんな風に私は考える。  私は彼を幸せにできない、自分で幸せになってもらうしかない。だって私は、自分の人生では死んでいる。それに、私自身にはこんな風に純粋に愛される価値はない、そのはずだ。 「だから僕は僕が消えれば、全部丸く収まる。そう思ったんだ。何も言わないで。僕が愛しているのは、あの大遺構の中枢で消えた彼女の方で、もうどこにもいないんだ。だから、僕も消えるのが正解だ。そう思って」 「……大遺構の、彼女」  私は思い返す。エックハルトの傍で見たその光景を。  大遺構の『システム』が再現した、『新井若葉』。あれは私の生前の姿だったけど、その人格の主体は私じゃなかった。  あれはあくまでもシステムのコンピュータ上の電子的な存在、多分私の記憶と人格を模したプログラム、AIであって、ここにいる私ではなくて。 「……ずるいよ」 「え?」  ちょっとだけ、でもずっと引っかかっていたことだ。そのことで彼を責めるつもりなんてなかったし、全部私の考える通りだとしたって別に構わないんだけど。でもこの際だから、私はそれを口にした。 「システムを止めたのは、私じゃなくて彼女。だからあなたが引き留めたのも彼女。あなたに向かって別れの言葉を告げたのも、彼女。私だってそういう存在になりたかった。かっこよく世界を救って、光の中に消えていって、何の見返りも求めなくて、でも消えても、誰かからは強烈に惜しまれる。そうなりたかった。でも私じゃない」  だって、私はアリーシャとして、彼女の一部としてそれを見ていたのだから。だから私は私としての自己認識はなかった、でも本当にそうだったのか? そう思い込もうとしていただけのような気が、今の私にはしている。  私はあの『若葉』が、私であって欲しかった。だって彼女には姿がある。美人でもなければ色気もないけど、でもあれは私の姿だ。そして、その『私』の姿で彼女が去っていったことが満足だった。これで私は、私として死ぬことができるから。誰にも知られず、何の物語もなくただ無駄に生きた人生を無駄に死ぬんじゃなくて、私の大事な人たちに看取られて、ちゃんと私として死ぬことができる。  その強烈な虚しさと引き換えの納得さえあれば、私は新井若葉を、自分の中で葬送できると、多分私はそう思っていたのだ。 「ねえ、だからさ。あなたが愛しているのは彼女なの。私じゃなくて。私は誰にも気が付かれないで消えていくだけの存在。それでいいの。そうでしょ?」  恨みがましく私はエックハルトを睨み返す。だけど、彼は微笑んだ。 「でも、きっと違うんだ。僕が愛しているのは、やっぱりあなただ。だって、こうして来てくれたんだから。最初からそうだった」 「そんなの駄目、そんなのずるい! だってあの『若葉』がかわいそう、あそこで生まれて死んだだけの彼女が!」 「二人とも、愛しているって思っちゃ駄目ですか?」 「だから、それがずるいって言ってるの! ずるい、ずるい、ずるい!」  あなたは彼女を愛しているのに、私も愛しているなんて言うのはずるい、なんて。それはもう、認めたようなものだった。  でも、この『ずるい』は、それだけじゃない。あの『若葉』は、あんな風に笑って別れを告げられたのに。私は違う、こんな汚い自分のままで、この人に依存して、未練がましくこの世にしがみついている、それだけの存在になっている。違う、そんなつもりじゃない。そのはずだ。エックハルトにそんな顔されても、アリーシャが困るだけだ。若葉としての私がどうとか、そんなのどうでもいいはずだ。そのために私はこの部屋を訪れた、そうでしょう?  とにかく認めることはできない。私が、彼を愛している、なんて。  私が私という存在について考える時、その概念はしばしば曖昧になる。だけど、肉体が一つである以上は、アリーシャでもあって、若葉でもある私について考えなければならないだろう。  リヒャルト様が愛しているのはアリーシャだ。若葉じゃない。エックハルトが愛しているのは、若葉だ。アリーシャじゃない。それでは、アリーシャと若葉は、二人の違う人間として振る舞うべきなのか? 別の人を愛してもいいのか? 本当に? 私は本当はアリーシャで、今は自分が若葉だと思い込んでいるだけなのかもしれないのに。  ここに一つの可能性がある。  アリーシャではない若葉、この今の、思考している主体である私。この私は、大遺構の中枢で再現されたあの『若葉』と、ほとんど同じ存在だという可能性だ。新井若葉であって、新井若葉ではない。新井若葉の記憶を持っている、その人だと思いこんでいる、それだけの仮想的な存在。  この私は確かに人工的なプログラムではないかもしれない。でも、それが人間のように思考し、決断を下す存在だとしたら、人工的か自然発生的かなんて、大した違いがあるだろうか?  つまり、私は新井若葉ではない。新井若葉は元の世界で生きて死んだ、彼女の歴史はそこで終わり。生まれ変わることも別の世界を見ることもなく。  その後、この世界に、新井若葉の記憶を持った思考主体が生まれる。それは、自分自身を新井若葉と思い込んでいる。だけど、彼女が経てきた人生を、それは実際には経験しておらず、インストールされた情報に過ぎない。そのインストールが人工的になされていないかどうかすら、本当には定かではない。だって、『システム』は、元の世界の人間の記憶を求めていた。  つまり、私は誰でもない。単なる役目を終えたプログラム。コンピュータで例えると、アリーシャの体はマシン本体、アリーシャの意識がOS、一方の私は単なるアプリの一つで、アンインストールを待っている。こんな喩え、逆に分かりにくいって?  とにかく、誰かを愛しているなんて、今の私が言っても仕方のないことだ。良くて死んだ女、悪ければ生きていたことも死んだこともない何か。  だとしたら。私の選択は、アリーシャの意識のメモリ領域に間借りしているだけの存在である私の選択は、私はアリーシャの人生を邪魔することは、私には。  だから。私は。でも。それは。  いいよ。大丈夫、心配しないで。  そんな声を、私は聞いた気がした。  私の視界が歪む。歪んだんじゃなくて、元から見えていたのに、意識しなかっただけなのかもしれない。  私は相変わらずエックハルトの寝室で、彼の前にいて、それを見ている。  だけど同時に、全く別の場所にいる、もう一人の人間を見ている。  アリーシャだ。  今は私と意識を交代して、主導権を譲っている、アリーシャ。多分、ずっとこんな風に、私はアリーシャに対して語りかけていた。 『久しぶり、だね。若葉』  そんな風にアリーシャは言って、微笑む。  アリーシャの姿は、十代の頃のメイド服だった。だけど、年齢はどうなんだろうか。今のアリーシャなのかもしれない。記憶にあるよりもずっと、アリーシャは堂々として、美しかった。昔からだんだん綺麗になっていたけど、今はもう、眩しいぐらい。一方の私は、相変わらずチビでパッとしない生きていた頃の私。このイメージの中で、アリーシャに対峙する私は、私としての私だ。  私は実は、密かに恐れていることがある。エックハルトはアリーシャの外見に私の性格、というかエックハルト相手の人当たりが載った、そんな女に惚れ込んでいるのであって、このイメージのような、パッとしない方の私には本来なら見向きもしないんじゃないかって。でもそれはいい、今はアリーシャのことだ。 「アリーシャ、あのさ」  私は、おずおずと口を開く。 「エックハルトはあんなこと言ってるけど。やっぱり、私はあなたが大事だよ。こんな風に悪く言わないでほしい、私が傷付く」 『だよね。分かる』  そう言って笑い、アリーシャは私の首に手を回す。 『あのね。リヒャルトが私にとって大事なのと同じぐらい、私にとってあなたは大事なんだ。だって、私は知っている。あなたの悲しみを、強さを、そして優しさと、弱さを』 「……リヒャルト、なんだ。今は」 『そう。だって私たち、結婚八年目だよ?』  それから、アリーシャは私の耳元で囁く。 『もし、あなたがあなたでなかったら、私は私ではなかった。新井若葉がいたから、アリーシャ・ヴェーバーもいる。あなたがいなければどうにもならなかった私だし、この人もそうだし、皆そうなんだよ? だから』  アリーシャは一度言葉を切って、黙る。  その時にアリーシャが浮かべていたのは、とても悲しそうな表情だった。それは、今から自分が、限りなく慈悲深く、また残酷なお願いをすることを、理解している表情だった。 『……選択して。あなたが、一番だと思う選択を。私たちはいつだってそうだった。いつだって最後には、一番の答えを出せた。一番の選択をすれば、それが一番の未来になるんだよね?』 「……私には、未来は。だから、選択は」  俯く私の手を取り、アリーシャは顔を近づけて、私の目を見る。長い睫毛、くっきりした二重瞼、灰緑の大きな目。私は密かに思っていた、そんな目をして生まれたのが羨ましいと。 『一瞬先だって未来だよ。私たちが選択できるのは一瞬先の未来だけ。でも、その未来が、次の未来、また次の未来を作っていく。あなたの選択を、未来を、私は信じる』 「……私は」  私は呟いて、掌で顔を拭う。  アリーシャはこんなに優しくて、そして残酷だ。私の可愛い、ずるい、愛おしいアリーシャ。 「……あのね。私も、あなたのことを愛しているよ。彼と同じぐらいに、私はあなたを」  顔を覆ったまま、私は低い声で呟く。 『知ってる。だって、あなたの心は、私が一番よく知っている。あなたを愛していることだったら、この人にだって負けないよ。……じゃあ、後は任せた。若葉』  その時の私は、エックハルトから見ればこうだったのかもしれない。私は虚空を見つめて、私の台詞だけを叫び、アリーシャの返答は心の中だけで聞いている。あるいは、アリーシャの返答も私が答えていたのかも。声帯を震わせていた感覚は私の方だけのものだったが、傍から見たらどうだったのか分からない。いずれにせよ、異常な光景と言えた。そんな私を、鋭い目でエックハルトは見つめている。全てを理解したような顔で。私にはそれが、どこか小憎らしくて、そして愛おしい。  でも、やっぱり。一つ、理解できないことがあった。 「あのさ。聞いていいかな?」 「何なりと」 「なんでそんなに私のこと好きなの?」 「分かりませんか」 「分かんないよ、全然」 「……あなたは、僕の憧れの人だ。僕は人生の薄暗がりをずっと生きてきた、あなたは光だった」  それから薄く微笑んで、エックハルトは続ける。 「僕は何も知らないんだ。生まれや境遇を取り繕うための技術なら死に物狂いで身に付けてきた。僕がどれだけ劣等感に駆られていたのか、誰にも気が付かせないように生きてきた。でもそんなの、あなたには関係なかった。あなたは全く違っていた。知らない世界の光で、あなたは照らしてくれた」 「……それは」  私は、ある英単語を思い出す。Enlightenment、啓蒙と訳される言葉。知識を与えるとか悟りを開かせるとかいう意味だけど、接頭辞、語幹、接尾辞の組み合わせから推測される元々の意味は、光を当てることだ。  身分がない、自分を支えるものを持たない、知恵の泉を汲む資格を持たない。そんな無名の人間が生きる世界と、その全てを与えられるもう一方の世界。その二つの世界を繋ぐ光の橋。そんな無名の人間の一人でしかない私が、その橋に辿り着けたのは、私の世界の歴史の賜物だ。彼の世界は、これから何百年も苦しい戦いを経なければならない。彼がその人生で苦しんできて、同時に加担してきた社会制度の軋轢から、この世界が解放される姿を、彼が見ることはない。 「……もし、別の世界に行くことができたとして。その世界では、みんなもっと賢くて、自分だけ踏みにじられることもなければ、知識や理解、光から遠ざけられることもないかもしれない。幸せに生きることなんて容易いかもしれない。そんな世界では、私なんて何の価値もないかもしれない。そうしたら、あなたは」  エックハルトはじっと私の方を見る。彼の答えはもう決まっている、だけど私に届く言葉を選んでいる、そんな表情だった。 「……あなたが差し伸べてくれた手がなければ、きっと僕はそこに辿り着こうとすら思わない。だから、僕はあなたを探します。それがどんな世界でも」 「…………そう」  もう、心を決めるしかなかった。だって私の人生の延長戦は、多分これが最後だから。 「……私はね、あなたが可愛いんだよ。あなたは、傍目には綺麗で、頭が切れて、決断力がある、男らしい男。でも本当は、怯えてるし、傷付くし、ヤクに逃げるし、それでも見栄っ張りだし、寂しがりすぎてどうしようもない男。でも、私はそういうとこが好きだよ。守ってあげたくなる、全ての嵐から」  微笑みを作ろうと努めながら、私はエックハルトに手を伸ばす。彼の表情に、少しだけ光が差したように感じながら。 「私にはもう出来ることも、きっと時間もないけど。でももう一度だけ、元気な顔が見たいから。だから私は来たんだと思う。ねえ、だからさ。あなた自身を大事にしてよ。自分のために自分を大事にできないなら、あなたが大事な私のために、そう思って」  エックハルトは背筋を伸ばして、沈黙する。 「……きっと、待っていたんだと思う。僕はあなたを」  長い沈黙のあと発した言葉がそれ。それから、エックハルトは私の方を見てくれる。 「あなたに助けてって言いたかった、ずっと。でも言えなかった。僕がまた起き上がれなくなっていれば、あなたがまた来てくれるんじゃないかって、心のどこかで期待していた。あなたが来てくれなかったら、それも運命で、僕にとっての潮時だと。でもそんな言い訳も、ただあなたを待っていたいためだけだった」 「……ほんっと、さあ」  やっと生気が戻りながらも、そんな情けない告白を堂々としているエックハルトの肩を、私は拳で小突く。 「そんな理由でそんな風にしてたなんて、ほんっと、さあ! 女々しいし、情けないし、だいいち卑怯じゃない? ……でも、その可愛さに免じて、許してあげる。今回で最後だよ?」  そんな憎まれ口しか叩けない私に、エックハルトは微笑みかける。それは、私が今まで彼の顔に見たことがないような穏やかで、美しいと言ってもいいような微笑みだった。 「……はい。でも。もう片想いじゃないって、思ってもいいですか」  こんな素直な『はい』、今まで彼から聞いたことがなかった。そのことに私は内心動揺する。 「好きなように考えれば? 別に」  でも、釘を刺しておかなければ。だって、この男は。 「でも、何もしないでね」 「どういう意味ですか?」 「分かってるでしょ! 何、言わせたいの?」 「言わせたくないかと言ったら、嘘になりますね」 「そういうところが、最低。……そうでなかったらもっと可愛いのに。いいけどさ別に、最低でも。……とにかく。私はあなたのこと好きだけど、アリーシャはそうじゃない」 「わかってますよ」 「嘘。だって私の唇奪ったの、あんたじゃない。あの時ね」  もう十年以上も前になるけど、ヤクで酩酊したエックハルトの、アリーシャに対する狼藉。この点は今まで、故意に曖昧にしていた。やっぱりこの人、アリーシャのことちょっとは好きだったんじゃないの? そうかもしれない、逆に憎んでいた故にと思うと嫌だ。でもそれよりも、寂しかったんじゃないか。私はそう思うことにしてやる。 「だから、あれが私だってことにしてあげる。あの時だから。私がアリーシャから分離したのが」  多重人格なのだから、本当はきっと、私はあの世界を生きていた若葉ではない。でもこの別人格の『私』は、ある意味では確かに若葉である、そう考えていていい。だって、このエックハルトが必要としている若葉は私以外ではないのだから。 「でも、もう一度は駄目。最初で最後。たった一回だけ、あんたは愛する人にそうしたの、そういう綺麗な話にして」  この私だったら耐えられる、それが私を愛していない男でも。その時はそう思っていた。でも、それが私を愛していたら? 私を愛していて、その内面の純粋さを、私だけが知っている男に。 (時系列が逆転してるけど、さ)  なんて、私は思ってしまう。  別にいいじゃない、この世に別れを告げるのに、そんな美しい物語の幻想に浸っていたって。  エックハルトは笑う。 「あなたは本当に可愛いし、それに結構刺激的だ。そんなこと言われたら、こっちは改めて惚れ直すしかない」 (……本当、この男)  私は視線を落としてしまう、それに、茹で蛸みたいな赤面になっていたかもしれない。やっぱり不埒だ。こんな私らしくもないことを、私の口から言わせて、考えさせてるの、あんたじゃないの。  それから口にする、私の小さな秘密を。 「あのね。今日が、私の誕生日なんだ。そして、私が死んだ日。誕生日に私は死んだの。誰からも看取られないで、たった一人で」  彼の目は私の目を見る、その鋭い金色の目は、最初に会った頃と何も変わらない。 「誕生日、おめでとう。……『若葉』」  ああ、そうだ。彼は私の名前を呼びたがっていた。彼の密かな願いの、他の全てと引き換えに。だけど私は、それを彼に呼ばせまいとしていた、きっと。  エックハルトは私に何をするでもなかった。ただ私の額に額を合わせて、その金色の目で私の目を見つめるぐらいだった。そして時折視線を落とし、私の頬に手を当てて、息を吐く。きっとエックハルトは、彼の目に映っているアリーシャではなくて、私自身が存在する証拠を私の目の中に見ようとして、目を凝らしている。私はそう思った。  ここまで来たところで、私たちはこんなにも進退極まっていた。世界から切り離されて、見捨てられて、この流れ着いた辺獄の河岸のようなベッドサイドで、お互いがここに存在していることだけを許されていた。私はまだいい、この場に存在しているエックハルトをちゃんと目にすることができるから。彼の方はそうではない。目を凝らしていないと見失ってしまう。彼がその目に私を見せている狂気を手放してしまうと、ここにいるのはアリーシャだ。  私は抗議したかった。世界に。こんな狂気を彼に強いている与えられた運命の剣呑さに。私たちはそれに敗北していて、実際には手も足も出ない。なのに、こんな風なレジスタンスを、彼は決して止めようとはしない。一方の私はもう運命に白旗を上げている、だからもうこの人を苦しめないで欲しかった。  なのに、ねえ。なんでそんなに幸せそうなの。  エックハルトがいかにも幸せそうにしていたんじゃない。ただこの名状し難い時間に対して、真剣だっただけ。それなのに彼が幸せだってことを、何故か私は理解してしまう。それは、きっと今まで感じたことのないような宿業からの解放で。こんなにも彼は、私たちは、滑稽で、悲しい。  そうしながらしばらく無言でいて、それからエックハルトはやっと言葉を発した。 「……何か、喋ってください」 「なに、それ」 「なんでもいい。あなたの話が聞きたい」 「そうだなあ。……あなたには、普通の人生を一度、経験してもらいたいかも」 「普通の?」 「私の普通。朝目覚ましが鳴って、目が覚めて、お父さんお母さんがいて、朝ごはんにコーヒーとトーストでも食べて、それから仕事とか……まず学校だな。行かなきゃならないの。どうせみんな、何かしなきゃならないけど。でも、やることは自分で選べる。やりたいことを。その自由だけ、持ってるのなんて」 「それから?」 「あっ、自転車乗りたい、自転車」 「自転車?」 「簡単な機械だよ。簡単だけど、洗練されてる。動力だっていらない、自分の力だけで、どこまでも走っていける、道さえあれば、どんな遠くにだって。……でも私、追いつけないな。脚、長いもんね。エックハルト」 「……待ちますよ」 「待たなくていい。必死で追いかけて……それでも追いつけなかったら、それを感じたい。あなたが、追いつけない人だって。追いかけたい人を追いかけて、エネルギーが尽きて身を投げ出すなんて、やってみたいじゃない? 生きてるうちに一度はさ」  エックハルトは溜息を吐く、それから。 「……やっぱり好きだ。僕はあなたが好きだ」 「なんでそうやって、好きの大安売りするわけ、エックハルトって。ねえ。別に特に、そういう話だった今、なんで?」  そう言いながら、私は彼から逃れようと努める。  たとえエックハルトに言葉で答えたとしても、体と、彼女の人生の時間を貸してくれたアリーシャに対しての責任は果たさないとならない。だって私はアリーシャのお姉さんだから。だけど、目の前にいるこの彼の、狂気じみた情熱に、今にも私の正気も焼き切れそうになっている。 「ねえ。私はいるけど、ここにはいない。どこか別の場所から、あなたに語りかけている。そういう風に思ってくれないかな。信じなくていい、そういうことにしておいて」  何を言いたいのか、きっと彼には分からないと思う。私が何を引け目に感じているかなんて、きっと誰にも分からない。 (アリーシャには身体がある。私にはない。……苦しいよ、やだ)  泣きたいとなんて、思っていないのに。  地味顔とか、色気がないとか、背が低いとか、そんなことで以前の私は、何を躊躇していたんだろう。だって、あるんだから、顔と、体と、手と足と、全部が。  アリーシャの弟のヨハンは今、片足がない。そして、そのことで傷ついていた。人と同じものがないことがどれだけの痛手になるか、その経験がない人間には決して、実感としては分からない。でも私の場合、全部がない。 (ねえ、エックハルト。だからさ。私は、あなたのことを愛しているなんて言えないんだよ。そんなの分かるでしょ。分かってよ)  そんな言葉を口にすることはできない。  もし、私が私だったら。美人じゃなくても、色気がなくても、本当はあなたが見向きもしないような女の子だったとしても、私が生きている人間だったのなら。  私が本当はどこか遠くの星にいて、目が覚めないだけで、夢の中からあなたに語りかけているのだとしたら、どんなに良かっただろうか。もしそうだったら、あなたはもっと幸せかな。そんな風に、絶望しないで済むのかな。私はそんなことを考える。 「エックハルト。……しあ、わせに……」  私は続けられない。幸せになってよ、それは言えない。そう思ったじゃないか。だって生きていた間、私は彼よりずっと幸せだったのだから。  私にはもう、何も残っていないのだ。自分の死とともに役目を終える、自分とともに持っていける肉体もない、それはずっと前に使い切ってしまった。生きている人間を邪魔してはいけない、そうしてしまったらほとんど悪霊だ。悪霊だったらまだいい、確かに自分である魂が存在しているのだから。私たちのこれまでの物語では、魂の存在証明すらない。今のこの私が、『私は新井若葉である』という自己認識を手放せば、もうきっと私は、どこにも存在しなくなる。  どうしてそのことが、こんなに苦しいんだろう。こんなに苦しいなら、この苦しさが私をずっと若葉でいさせてはくれないのか。でもそれは無理、だってこの『私』は本当はどこにもいない、それを私の頭じゃなくて、心が理解し始めている。 「……あなたは、あまり理解してはくれませんが。でも、僕は幸せだ。今」  そう言ってエックハルトは私の頬に手を伸ばす。私はもう泣いていて、涙腺はべちゃべちゃになっていた。 「誰のことも愛せなかったのに、今はこんなに愛している。あなたのことを。それに、あなたが心を開いてくれたから。一生好きで居続けても惜しくない人だって、自分のことをそう思ってはくれませんか?」  その親指で私の頬を流れる涙を拭きながら、エックハルトはそう聞く。 「僕は狂っているのかもしれない。でも、あなたを見つけられる僕で良かった。だって、あなたは最高に格好良くて、最高に可愛い女性だ。そうでしょう?」  私がしなければならないのは、彼をこの呪われた運命から解放することで、私のことは綺麗さっぱり忘れてもらうことだったはずだった。じゃあ、そう言われて嬉しくないのか? 嬉しくないはずがない。 「本当は、ずっと一緒にいたいけど。でも、それはできないんでしょう。だから、約束させてください。……いつか、どこかの世界、別の人生で。同じ時間を生きることができたら。そうしたら、絶対にあなたを愛する、どんなあなたでも。一人では行かせない、二度と。心の痛みに耐えられない時には、それが過ぎ去るまで手を握っている。良い時間も、悪い時間も、あなたの生きる時間を愛する」 「……分かった」  そう言って私は手を伸ばし、エックハルトの小指に小指を絡める。 「いいよ、約束。でもそれまで覚えていて、これだけは。あなたは愛される人で、愛されている人で、愛すべき人なんだって。……だからどうか、元気でね。エックハルト」  それから。 (……ごめんね、アリーシャ)  一つだけ私は、アリーシャを裏切ることにする。  ねえ、いいでしょ、これくらいは? だってそうでもしなければ、私はこの人を置いては行かれない。自分自身に別れを告げられない。  私は立ち上がり、エックハルトの額の髪を払うと、そこに口付ける。頬や唇ではなくて、額。それも一瞬だけ、触れたか触れないか、分からないぐらいの口付け。  アリーシャじゃない私は、愛情表現なんてしたことがない、できると思ったことがない。だから、だけど。  ――さよなら、エックハルト。私が消えてしまっても、それかどんな世界にいても。それから、どんなあなたでも、永遠に私は。  その最後の言葉は言わない。  私が彼を置いて行かなければならないのなら。愛する者より先に逝く事が人間の運命であるのなら。自分という存在が消えた後も、それが生きて存在していてくれることが喜びであるのなら。  あなたは私がいなくても大丈夫かな。苦しい時、私が側で座っていてやれなくても、薄暗い中二人きりで、密かな悩みを打ち明けるその言葉を、私が聞いてやれなくても。  私は踵を返す。一瞬振り返るけど、彼の表情には焦点を合わせないように努める。もし顔を見てしまったら、本来はアリーシャのものである私の心が揺らいでしまうかもしれないから。  そうして外へと、一歩を踏み出す。  さよなら、エックハルト。  さよなら、『私』。1a26fac4-328e-47a5-8832-ac7497ae5cd1 別れ・心象風景 / 自筆
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