10章2話 成就

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10章2話 成就

【西暦2018年1月29日 若葉】  エックハルト・フラウンホーファー。  今の彼の名前だ。ファーストネームが同じだったのは幸運だった。そうでなかったら、どう呼んでいいのか分からない。  劇的な遭遇から数時間後のことで、私たちがいるのは地元のレストランだった。鄙びて落ち着いた雰囲気の店内で、静かに会話するカップルが他にも数名いて、家族連れは今は見当たらない、そんな雰囲気の店だった。   そこで、今のこの人、『エックハルト・フラウンホーファー』である彼の人生と境遇について、私は根掘り葉掘り話を聞いていたのだった。この26歳のドイツ人男性である方のエックハルトは、比較政治学を学ぶ大学院生で、予備審査を控えている。またかなり優秀らしく奨学金(といっていいのか分からない。大学院生に支払われる給与だ、要するに)で生活できているし、その先の将来も今の専攻内容を活かした道に進めそうだということだ。これらの話を総合すると、このエックハルトは私なんかとは比べ物にならないインテリだ。  それから話し方や、そこからなんとなく伝わってくる人となりについても。物腰は静かで穏やかで、張り詰めた感じがあまりない。私が知っているエックハルトって、普段は慇懃だけど突き放すような物言いをするし、私に対してすら、丁寧だけどなんというか、妙に噛み付くようなというか突き刺すようなというか、そんな雰囲気で喋ることがあった。  本当にこれは、あのエックハルトと同じ人なのかな。アリーシャと私は、結論から言えば違う人だったから、このエックハルトと前のエックハルトが完全に同じ人である必要はないんだけど。でも私達とは違って、確かに同じ人であると確信してしまうような、そんな顔立ちをしている。  そんな風に様子を伺っていた私の目と目が合って、エックハルトは微笑む。 (……調子、狂うな)  私は恥ずかしくなって、片手で顔を覆う。  何せ、この自分の人生で生きている私は、ちっぽけでぱっとしない、はっきり言ってしまえば喪女なのだから。そりゃ、さっきは勢い余って抱き合ってしまったけど、冷静さが中途半端に戻ってきてしまった今の私には引き続きそんなことができる訳じゃなくて。さりげなさを装いつつ様子を伺い、また不器用な会話を投げかけているだけだ。  それに、あのエックハルトも意図的にこっちのペースを乱してくる人だったけど、このエックハルトは別の意味で私のペースを乱してくる。さっきも挑戦的な物言いをした私だけど、それは私が口だけ女だってだけで、正直、私はここからどうしたらいいのか分からない。 「…………」  エックハルトはふと、無言になる。眉を顰めて、腕に嵌めた時計を見遣っていた。その時計は液晶画面のスマートウォッチ。それは高級メーカーの最新モデルの一つ前ぐらいだと思った。私はなんだかおかしくなる、だってあのエックハルトが、今ではすっかり現代社会に馴染んでいる。  でも、その仕草は私には引っかかった。だって彼は、時間を気にしているということだ。それか、腕時計を気にするのは退屈してる証拠だって話もあったような気がする。 「あのさ。……ごめんね、忙しいところを。私なんかのために」  私は躊躇いがちに口を出す。 「え?」 「だって、予備審査ってさ。時間ないんじゃないの?」  私の問いかけに、彼は静かに首を振る。 「いや、違うよ。このレストラン、九時には閉まるから」 「早いね」 「東京みたいな都会じゃないからね。バーならもっと遅くまで開いてるけど……どうする?」 「どうするって?」 「別の店に移動するか」 「……バーは違うかな。音が大きすぎて声が聞こえないし、暗いし」  私はこの旅行で一人で酒場に入ったりもしていたが、若者がたむろしているようなバーはそんな感じの店が多かった。 「静かなバーだってあるよ。でも、疲れてるならいい。眠そうだし」 「……やだ。もっと話が聞きたいし、顔を見ていたい」  旅行の七日目のことで、私は時差ボケが完全に抜けてはいない。だけど、ここで彼を解放するのも違う。 「じゃあ、どうする?」 「ホテルの私の部屋。……でも、誤解しないでよ!?」  勢いよく私は付け加える。 「別に、誘ってるんじゃないから。そんな女じゃないからね? 言い訳してるんじゃなくて、本当にそうなの。……とにかく、大事な話があるから。お願い」  エックハルトはまた、静かに笑う。 「……分かった」  それから数十分後のことだと思う。 「……ええと」  私は言い淀む。  私たちが立っているのは、滞在先のホテルの、広めのバスルームだった。まずはフロントと交渉してもらってから、私は彼の手を引いて、この部屋に導いたのだ。  それにしても、なんでバスルームかって? ベッドのある寝室は暗すぎて、顔がよく見えないバーと大した違いがない。普通の日本人である私にとっては、夜中でも十分な光量があるのはバスルームぐらいだ。だけどただ顔を見るためじゃなくて、重要な話があったのだ。  私のいでたちは、ジッパー付きの薄手のパーカーの腕をまくり上げていて、それに綿のホットパンツみたいな姿で、普段隠している手足が露わになっている。部屋に帰ってきてからエックハルトを待たせて、バスルームで着替えて、入ってきてもらったのだ。 「だから、交通事故の痕。脚のこの二本の線がそう。それから腕のここは、ずっと点滴してた痕が残ってるだけで、大したことないんだけどね。胸の真ん中と、脇腹と、頭にもあるけど、実は。……見たい?」 「……大丈夫。今は」  彼はそんな風に答える。私の体に残っている交通事故の傷痕だが、今では縫合の跡などは細い線になっていて、そこまで痛々しく見えないのは幸いだった。というのはあくまで主観であって、彼にどう見えているのかは分からない。というか、エックハルトは辛そうにすら見えていた。男性って、案外傷とか血とか駄目なんだっけ? 「ええと。あのね。謝りたかったんだ、ずっと。それでもあんたは生きてるじゃない、みたいな態度だったから、私。本当は生きてたのに。あなたをあそこまで追い詰めなくてよかったのに。死んだと思ってたってだけの話」  そんな私の言葉にも彼は答えない。ただ目を見開いたまま、無言になっている。 「ほんと、ごめんね。引くよね? こんなの。萎えるって思ってくれてもいいよ。全部自己満足だから、私の」  こんな風に私は話を切り上げようとする。私は彼をその記憶から解放したいのか、それともその記憶でもっと追い詰めたいのか。したいことと実際にしていることが矛盾しているような気まで、私にはしてきていた。 「…………あなたは、僕のあなただ。そうだ」  長い沈黙の後で、エックハルトは私の首を両腕で抱く。 「ずっと苦しかった。自分の人生ではない記憶が宙に浮かんでいて、ずっと心に引っかかっている。心が痛む理由なんてないのに、ずっと心が痛んでいる。その痛みは彼にとっては自己証明だった、だけど僕にとっては違う。それが真実なのか、それとも妄想なのか、ずっと分からなかった。だけどあなたは、僕のあなただ。その身に代償を負って、僕の側に来てくれた。僕を救ってくれたあなたが、今ここにいるあなただ」  別に、あなたのために事故に遭ったわけじゃないけどね。そう思わないこともなかったけど、言葉にはしなかった。だってもう、因果関係なんてどうでもいい話だった。それでも彼に、言っておきたいことはあった。 「……あなたが、あんな約束したからでしょ。本当さ。もう、自分で自分の首絞めないで。自分を余計に苦しめることなんて何とも思わないみたいに思わないで。二度と」  そう、エックハルトの約束。それが問題だった。私に対してあんな約束をしたからエックハルトの記憶は、この世界の方のエックハルトに継承された、そうなのかもしれない。実際はそうでないかもしれないけど、記憶が継承された結果、余計に苦しむような追い詰め方をしていたことは確かだった。私だって、別の世界でまた会えたら、そうなったらいいね、としか思わなかった、あの時は。それが、苦痛に満ちたエックハルトの人生の記憶をそのまま次の人生に持ち越すことを意味するとは思いもしないで。前のエックハルトにとってはそれが宿業で必然だった、ある意味では。このエックハルトにとってはそれは、謂れもなく加えられた暴力のようなものだ、それも幼少期から現在に渡って。そんな運命を私は彼に強いていた。  エックハルトは私の顔を見て、言う。 「僕はあなたを愛している。だから、いいんだ。これだけが正解だった。そうでしょう? だって、あなたはここにいる」 「……それで、帳消しになると思ってる? 前のあなただけじゃない、今のあなたまで傷つけて、それで私が平気だと思ってる? そんな風になってまで、約束守って欲しいなんて私が言った? もう、バカ、ほんとバカ」 「……ごめん」  半泣きで彼の肩の辺りを拳で殴る私に、謝るエックハルト。 「ごめんじゃない。私がごめんなさいなの。ごめんなさいじゃない、違う」  実際、私の言葉の方が筋が通らなかったのだ。だって、私もその約束をしたのだから。 「……それでも」  それでも、と私は思い、そう口にする。 「それでも?」 「ねえ、なんで私がこんな、恋する乙女みたいなこと言わなきゃならないの? そんなの私じゃない、私の既定路線じゃない」 「……ごめん、何を言ってるのか分からない」 「だって、私そんなに可愛くない。だって、美人じゃないでしょう。そんなの見て分かってるでしょ、私を引っ張り出さないで」  私は顔を覆って、なんとかこの場面でだけは中学生みたいな童顔に見えないように、無駄な努力をしている。私は美人じゃないし優秀でもない、おまけに実際の年齢では若くすらなくなってしまった。私は素晴らしくない、だけど二流三流の女みたいに扱われたくない。だから恋愛市場に引っ張り出されたいなんて思ってない。そう言って生まれたてのカタツムリのような脆弱な自分の殻に閉じ籠って自分を守っていたのがこれまでの私だった。この男はその私を無理矢理その殻から引っ張り出そうとする、エスカルゴのバター焼きみたいに。 「あなたは可愛い。あなたは、自分の魅力を分かっていないんだ。……でも、違うでしょう。本当は分かっている。僕にあなたが、どんな風に見えているか。そうでしょう?」  エックハルトは私の顔を覗き込む。一方の私としては、こんな風に顔を見られるのはどうしても慣れない、この美しい男から。その金色の目と目が合って、また目を逸らしてしまう。やっぱり接近戦は厳しい。 「……それでも、やっぱり。恥ずかしい、こんな間近で見られるのは」  やっと私は白状する。 「僕はあなたを本当に可愛いと思ってるよ。そうして恥ずかしがっている姿は本当に、世界で一番可愛い」  そう言ってエックハルトは、私の頭に顎を乗せるようにしている。  やっぱりエックハルトは気が狂っている。私が美人じゃないことなんて私が一番分かってるのに、よりによって世界で一番って。何なんだろう、この男は。私はそう思った。  というかでも、私が本来言いたかったことからは、話が盛大にずれていた。今の本題はそれじゃなかった。 「……そうじゃなくて。私にも言わせてよ。ちゃんと」  息を整える。怖い、逃げ出したい気持ちが湧き上がってくる。 「私も、あなたを愛しているよ。私もじゃない、私の方があなたを愛してる。だって私は、あなたに幸せになって欲しいから」  そうだ、もう許されないことは何もない、それについて少しでも思考する度に襲ってくる苦しさからは解放されていい。それから、私は彼の頭に手を置く。 「あのね。私、ずっとこうしたいと思ってたんだ」  そう言って、彼の髪の間に指を入れて梳き、それからぐしゃぐしゃにする。エックハルトはその私の手に額を、頬を擦り寄せる、気持ち良さそうに、まるで犬か猫の子みたいに。なんだ、私が考えていたより、ずっと単純なことだった。そう私は思っていた。 「……あなたは、赤ちゃんみたいな人、私にとってはね。何をしていても、可愛くて、可愛くて。他の誰かのじゃなくて、私の赤ちゃん」  そんな不埒なことを言いながらその柔らかい髪を撫でていたら、エックハルトは私のその手を掴む。静かな、だけど有無を言わせないような動作で。 「やっぱり、あなたはずるい。僕は男として好きなのに、あなたはそういうことを言うんだ。だから僕は」  そして、私の顔に顔を近づけて言うのだ。 「ごめんね」  それからエックハルトは右手を私の背中に回して引き寄せて、左手は頭の後ろで、それから唇を合わせて舌を絡めてくる。 「…………っ」  後頭部がじんじんしてくる、それから膝から力が抜ける、それなのに爪先立ちしてしまう。両脚に震えすら感じている。薄々思っていた、自分がもしこんな場面に立つことになったら、ただのちょろい女になるんじゃないかって。案の定だった。 「うー……うう。もう。私をあなたの、思い通りにしようと、しないでよ」  やっとの思いで私は弱々しい抵抗をする。 「あなたに相応しい男になれるように、頑張ったよ。それでもやっぱり、僕を男としては見てくれない?」 「だからさ、ええと。……そんなに、思い詰めないで。大丈夫だから……大丈夫」  このエックハルトは私に関する記憶を呼び起こせなかったはずで、彼の言っていることが本当に辻褄が合っているのか、私には分からない。分からないけど、このエックハルトがこれまでずっと頑張っていた、それは私にも分かる。 「確かにあなたは私の好みのタイプだよ、私はあなたに惹かれてる……私は、あなたに。……あー恥ずかしい、なんでこんなこと言わないとならないの」  私は軽く頭を抱える。インテリなのに色っぽい男、確かにそう。前のエックハルトだって知性的だったし、それはむしろすごく似てるんだけど。  当然お察しかと思うけど、私は大人の女なんて自称しているだけで、男性経験なんてないし、自分の心に聞いてみて確かに恋していると言えることすら、もしかしたら初めてかもしれない。今日はいっぱいいっぱいで、食べ物も飲み物もあまり喉を通っていないし、再会直後は緊張のあまり手元のレシートを細い帯状に引き裂いて全体を一つの大きな輪っかにしていたぐらいだ。この人相手にここまで緊張するのは、アリーシャじゃなくて私の姿を見られているからなんだと思うけど。  私は、今までどれだけ自分の心に蓋をしてきたんだろうか。だから今のこの瞬間も、それはもう私は緊張しているのだけど。 「……大丈夫、受け止めてあげる。ずっと抱えてきた、あなたの苦しさを。だから。……おいでよ」  エックハルトは私の胴に抱きついてくる。私はその頭を撫でようとするけど、震えてしまって上手くいかなかった。 【西暦2018年1月30日 若葉】  その翌日の話だ。この日は珍しく晴れていて、窓の高い位置から太陽の光が差し込んでいた。午前も遅い時間になっていた。 「結婚してください。僕と」  私の耳元で彼が囁いた言葉がそれ。 「…………本当さあ。その即断即決には、素直に感心するわ」  私は目の辺りを手の甲で覆って、思考を組み立てる。 「そういうの適当に誤魔化すと思ってた、普通の男だったら。正体不明の旅行者と出会ってゼロ日で恋愛関係になるだけでも、人からどう思われるか分かんないのに」 「あなたが望んでいることではないかもしれない。でも」  彼の目は私の目を間近で見つめる。 「全ての嵐から守りたい、なんて。こんなに小さくて、傷を負ったあなたが。差し伸べてくれたあなたの手を今だったらしっかり掴めるのに、離してしまったら。僕の知らない所であなたをまた失ってしまったら、今度こそ僕は駄目になる。今度は僕があなたを、全ての危害から守りたい。持てる力の限りで」  私はなんかもう、煙を吹いているような気分だった。あの時の私の言葉が、彼の中で生きていた。それも、こんなに長い間。でもどうなんだろう、あの世界の物語とこの世界の物語を、同じ因果律の中で考えてはならないんじゃないだろうか? あの世界の記憶はただの記憶、私たちの間のお伽話として、私たちは私たちの、この人生のことをもっと真面目に考えなければならないのではないか。  でも、私も約束したのだ。『一人では行かせない』、それを彼と。それから、もっと他のいろんなことも。私とこの人の現状を考えてみれば、あの約束を果たすには、結婚するぐらいしかないのかもしれない。 「……それに」  ぼそっと呟いてからエックハルトは目を逸らして、なんだか恥ずかしそうな顔になる。 「それに?」 「あなたが帰国してしまったら、しばらく会えなくなる。言わないでおいて他の男に先を越されてから悔しがっても遅いでしょう」 「そこ心配するとこ? 今までそんな男がいなかったのに、急にそんなことが起きる可能性なんて考える奇特な人はあなたぐらいだと思うけど?」 「それは、見る目がなさすぎるか腰抜けすぎるでしょう、他の男たちが。でも、これからだって同じとは限らない」 「やっぱり過大評価、だなあ。まあ、悪い気はしないけど」  彼の眼差しから目を逸らしつつそんな風に私は答える。 「でも、実際はあなたを傷付けているし、今も困らせてる。矛盾してるんだ。だから、断りたいならそう言って」 「あのさ、私軽い女じゃないからね? 身持ち固すぎて嫌になるぐらい、そんなの分かってよ」  今度は私の方が彼を引き寄せる。その動作には、私の全身の骨格と筋肉が抗議していたけど。 「あなたの人生の選択の失敗にはなりたくないんだよ、私は。今のあなたはもっと強いから。私なんかに守れるのかどうか、私には分からない。だって昨日なんかあなたを、危うく自転車で轢くところだったし。……だからさ。しばらく一緒に暮らしてみて、そうだな、あなたの学生生活の間とか。それであなたの決断が揺らがないんだったら、私はそれでいいよ。あなたに本当に幸せになってほしいから」  エックハルトはその、なんとも言えない眼差しで私の目を見ると、改めて私の首根っこにかじりつく。 「やっぱり僕はあなたが好きだ、気が狂いそうなぐらい。あなたが引くぐらい。それなのに、あなたが受け入れてくれた。僕を恋人にしてくれた」  それは屈託のない、無邪気すぎる愛の言葉で。26歳って確かにそこそこ若いけど、なんかもう、高校生みたいだった。そんな子供みたいな言葉を聞きながら、同時に誘惑的な動作で撫で回されはじめて、私はもう完全に脳がバグを起こしてピクリとも動けなくなっていた。全くまとまらない思考が、水蒸気になって頭の上に浮かんでいる。  ねえ、可愛いってどういう意味? 愛しているって、どういう意味。  皮肉じゃなくて、私には本当に理解できないの。  私、美人じゃないでしょう。ねえ。  神様、助けてください。
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