10章3話 夏の光 *

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10章3話 夏の光 *

【西暦2018年8月2日 若葉】  こんな風だった私たちの再会だけど、その後いろいろあって、私が彼の住んでいる方に移住することになったわけ。だって私は今や無職で、預金がそこそこある無職だから。  私は旅行の予定を切り上げて一度帰国した。それから、語学留学兼ねたワーキングホリデーという手段で長期滞在するために、数ヶ月の準備を要したのだった。まだ私がワーキングホリデー用のビザが取れる年齢で良かった。これでしばらくの間は一緒にいられる、その間に生活基盤を整えて、どんな風にだったら生きていけるのか模索したい。移住が無理だったらどうなるんだろうか。まだ分からないけど、何とかなるでしょ、そんな風に楽観的に私は構えていた。彼が生きていたような近世だったら、たまたま旅行で行き着いた国にそのまま居座るなんてこともできたのかもしれないけどね。  それからの私たちの話だ。  戸惑ったり、時には喧嘩にもなるけど、私たちはなんとかやっている。私の方は、だ。彼がどうなのかは、本当のところは分からない。  エックハルトが内心嫌がっているとか、がっかりしている様子を見せているとかいうわけじゃない。だけど、私は心配なんだと思う。私が彼を失望させることを。だって私はやっぱり、彼と釣り合ってはいないのだから。彼は優秀で、イケメンで、性格も良くて。いや、性格は良くないか。あのエックハルトとは違うけど、このエックハルトはこのエックハルトで癖のある性格をしている。これは本当に。  まず、物腰は静かで穏やかで、攻撃的な所をあまり表に出さない。これは明らかな評価材料だ。外ではまるで完璧な紳士のように振る舞っているのは、ある種の演技かもしれないけど、エックハルトらしい気遣いの証拠でもある。それに、私がやってあげたちょっとしたことで嬉しそうな顔をしてくれて、何かと自分から手助けをしてくれる。私がやりたいって言ったことに、大抵の場合は付き合ってくれて、また率先して誘ってくれることもある。例えば博物館に行って、展示をきっかけに果てしなく逸れていく話題を語ることもできて、それも楽しそうに聞いていてくれて、時々口を挟んでくれる人がいるだけでも私は幸せだ。  だけどエックハルトは時々凄い毒舌だ、特に政治絡みの不穏なニュースを聞いたりしたときは。それから、彼は想像以上に、思ったより、思いっきり頑固だった。普段は譲ることが多い、だけど本人が譲らないと決めたことは絶対に頑として譲らない。いや、元からそうだったと言えば、それはそうなんだけど。一緒に暮らし始めてみると、そこが一番のネックになったりするのだった。  だからこれも、そのエックハルトの頑固さを示すエピソードの一つだと言っていいだろう。 「……駄目駄目って、勝手に決めないでよ」  一向に進まない議論に、私は思わず声を上げる。 「これだけは駄目だ。駄目なものは駄目」 「なんでっ」  私は不満だった。  これは、一緒に暮らし始めてから少し経った頃のことだ。  ことの発端はこうだった。ちょっと気軽な遠出をするための足として、私は自転車が欲しくて、そしてエックハルトは高い自転車を持っていた。だから、一緒に買いに行って欲しい、そしてできれば良さそうな自転車を見繕って欲しいと頼んだのだ。だけど、彼の答えは否だった。私の自転車の乗り方では不安があるから、というのが彼の論拠だった。 「別に、自転車なんて小学生から乗ってたし。バカにしないでよね」  私は頬を膨らませて、不満を表明する。 「ここは日本じゃないんだ。スピードを出して走っている車に混じって、他の自転車乗りと同じように車道を走れる、若葉?」 「うっ……」 「それでまた交通事故にでも遭ったらと思うと、駄目と言うしかない。前のあの時も、漕ぎ始めのスピードが出せなくて、石畳の凹凸にハンドル取られて僕に衝突したよね、若葉」 「……もしかして、根に持ってる?」 「そうじゃないよ。僕じゃなくて、走ってくる車の前に飛び出してしまったらどうする? その時、僕が側にいなかったら……いたってどうにもできないこともある」  こんな風に、私に対して論理的に激詰めしてくる時のエックハルトには、あの昔のエックハルトの、下ろしたての剃刀のような切れ味の面影が見えないこともない。 「ううっ……」  完全に言い込められて私は小さく呻く。確かに、彼の言葉は一理ある。ここは日本じゃないのだ。  だけど、それでも私にも譲れないことはある。そして私は抗議を続けるのだった。 「……約束したじゃん」 「え?」 「約束したじゃん! 一緒に自転車乗って、遠出して、疲れたら草の上で寝っ転がったり、それからピクニックもしてくれるって! 私が追いつけなくて遅れても、待っていてくれるって、そう言ったじゃん!」  この抗議は、私の妄想がかなり混じっているような気がしないでもないのだけれど。それでも、一緒にできないことはあまりに多いのだ。自転車に乗るみたいな単純な娯楽ですらそうだし、それから彼が時々嗜むというサバイバルゲームも、いきなりズブの素人が上級者の集団に飛び込むわけにもいかない。 「……あれは、訓練だから」 「訓練?」 「いざという時に大切な人を守れるようでないと、男としては、ね」  そんなことを言いながらエックハルトは、なんだかもじもじしている。 「そういう動機でサバゲーやる人いる??」  私は突っ込みを入れざるを得ない。現代の一般男性の基準からすると、どうやらエックハルトは古風な考えの持ち主らしい。 「…………。じゃあ」  やがて口を開いたのは、エックハルトの方だった。 「じゃあ?」 「代わりに、こういうのはどうかな」  代わりに何をしたのかの話だ。  エックハルトの車でおもちゃ屋に行って、でっかくて高級な水鉄砲を4セット買った。  それから車で一時間、エックハルトの実家に向かい、近所に住む歳の離れた姉の息子二人(このエックハルトには、なんと姉がいるのだ)を巻き込んで、近所の公園で水鉄砲合戦と相成った。ハンデを付けてもらって、エックハルト対、私と男の子二人の勝負だった。  それでハンデは十分と見たからなのか、エックハルトは手加減してくれなかった。だから私達は一計を案じたのだ。 「……どうだ、参ったか」  びしょ濡れの姿で、私は倒れるエックハルトに向かって笑顔を向けて見せた。  どういう作戦かって、一人の子に援護してもらいながら、私が注意を引き付ける。そうしながら、もう一人に回り込んで狙撃してもらう。二人を狙撃に向かわせないのは、十分に注意を引き付けておくためだ。この作戦によって私は死ぬ(水鉄砲合戦的な意味で)が、確実にエックハルトを仕留められる。戦闘の熟練者であるエックハルトに勝つにはこれ以外の方法はなかった。  まあ、もしかしたらそれでも、彼が完全に手加減しなかったかどうか、私には分からないけど。ことの成り行きにエックハルトの二人の甥も、私も、それからエックハルトも満足したようだった。  エックハルトはかけていたサングラスを外して、それから答える。 「参ったよ」  エックハルトは笑顔だった。それは本当に屈託がなくて幸せそうな、夏の光の中、水滴の煌めきに彩られた満面の笑顔。  そして今の私は、エックハルトの実家の、彼の部屋で、Tシャツ一枚で震えている。 「ううう、なんて馬鹿なことを……」  そんなことをぼやきながら。着てきた服はびしょ濡れで、今は季節外れのオイルヒーターの上で乾かしているけど、夕食の時間までに間に合うかどうか微妙だった。ここはエックハルトの実家なのだから、お父さんとお母さんがいる。今日は私は、夕食に招かれていた。彼が私を家族に紹介してくれるというのだが、果たして、二人してお母さんにずぶ濡れのみっともない姿をお見せすることになってしまった。  今の私の格好、ぶかぶかのTシャツの下はパンイチで、あられもない格好と言う他はない。乾かなかったら下まで含めて彼の服を借りるしかないのかもしれないが、それはそれで酷いことになりそうだ。お母さんやお姉さんの服ならまだ着られるかもしれないが、初対面で服貸してくださいって、それはすごく、人としてどうなんだろう。  そんな私にエックハルトは含み笑いだ。それから彼は私の方に手を伸ばして、それから私の体を引き寄せる。 「こら! ちょっと……夕食まで、すぐだから」 「ちょっとだけ」  エックハルトの愛し方、その緩急の付け方は芸術的ですらある。一方の私は、いつだっておっかなびっくりで、本当に彼が満足しているのか、私はついつい考えてしまう。  それからエックハルトは一体どういうつもりなのか分かりにくいときがあって、それが今だ。もしかしたら本当に「ちょっとだけ」のつもりで、単にじゃれ合いたいだけなのかもしれないけど。  しかし、何と言っても現状が現状である。この部屋には二人きり、だけど階下には彼のご家族がいる。そしてこの、建てられてからそれなりに年月が経っているらしい一軒家の二階で、ここで私達がどたばたしていたらさすがに気が付かないことはないだろう。何より、夕方まではあまり時間はない。私はスイッチを入れられる前に食い止めなければならなかった。 (この人、ほんとに今の状況分かってる? 気にかけてる? ねえ)  こういう場面ではいつも押され気味、というか押されっぱなしの私。だけど社会的なこと、特にご家族との関係を考えたら、ねえ? 「……ねえ、ってば。お父さんとかお母さん、どう思うかな。上がり込んできた知らない女と息子が、自分の家で……ねえ」 「……二人は安心してるんだよ。僕が今まで変わり者で、この10年ぐらい、恋人を紹介することもなかったから」  その言葉に、私は複雑な感慨を抱く。  今のエックハルトには、家族がいる。その事を私は、改めて考えざるを得ない。正真正銘の、生まれた家の家族。私が知っていた、誰にも顧みられない孤独を抱えていたあのエックハルトとは、やっぱり違っている。 「ねえ、エックハルト」 「何?」 「もう、寂しくはない? 今は」  この言葉に、私はある意味合いを込める、それを彼には知られないようにしながら。  このエックハルトは、あのエックハルトと同じ存在なのか。私は棚ぼたのようなこの状況に身を任せていていいのだろうか。そのことを私は考えている。  だって今のエックハルトには、優しいお父さんもお母さんも、それからお姉さんまでいて。この人生でのエックハルトは、両親が歳を取ってからの子供で、可愛がられて育てられた。16歳ぐらいまではちょっと大人びた雰囲気の、でも普通の子だった。周りの子どもたちと遊んだり、付き合っている女の子を家に連れて来てたりもしたらしい。  彼曰く、その頃は部分的に、そしておぼろげにしか記憶が戻っていなくて、私のことも思い出せなかったのだという(それを言い訳がましく弁明していた)。その後、記憶の復活が顕著になってきて、同時に傍目には偏屈になってきた。そうして、クールな変人という評価で定着したということみたいだった。  この人生でもしっかり女の子と付き合っていたというのはいかにも彼らしい話で、私は逆に笑いが込み上げてくるけど、でもあのエックハルトとは大きな隔たりがある。その人生で孤独と悲しみから逃れられなくて、終いには自分から逃れることを拒否してしまったあのエックハルト。あのエックハルトであることを、私が彼に強制しているんじゃないかと、私はそれが怖い。  このエックハルトとあのエックハルトには明らかな違いがあって、それが境遇だけではなくて、性格にも現れている。あの世界のエックハルトは、私が出会った時点で既に、社会によって複雑に侮辱された人生を虚勢を張って27年生きてきた、世間擦れした人間だった。一方で、この世界のエックハルトは、恵まれた家庭に生を受けながら、たっぷり苦しんで生きた男の人生の記憶を引き継いで、どこかしら悲しげな影を引きずった浮世離れした人間だ。つまり、両方のエックハルトは、性格形成の段階からして違っている。だからある意味では違う人間だ。  そんな私の思いを知ってか知らずか、エックハルトはこう答えるのだ。 「寂しかったよ、ずっと。自分の中の、大事な何かが欠けた存在だった、僕は」  そう言いながらエックハルトは、私の首筋の辺りに顔を埋めている。  これが、そういう愛であっていいのか。私が与えてやれるのが、見返りを求めない大きな愛じゃなくて、ちっぽけで貧相で、気まぐれで身勝手でもあって、こんなに私でしかない私の愛だとしても。それなのに今は、熱を持った彼の肉体が、そこに宿る生命が愛おしいと思ってしまう。 「若葉、幸せ?」 「……幸せだよ」  私はエックハルトの頭を撫でる。  あの世界にいた私は概念だけの存在で、ということは、ここにいるのはエックハルトだけど、あのエックハルトはここでは、概念だけの存在なんだろうか。それとも私の時とは、何かが根本的に違うのか、その答えはない。  どうか、この彼とともにあの彼が確かにここにいてほしい。そして幸せであってほしい。
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