10章4話 バタフライエフェクト *

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10章4話 バタフライエフェクト *

【2018年11月24日 若葉】  昔のエックハルトと、今のエックハルト。同じだけど違う、違うけど同じ。そういう奇妙な概念、自己同一性の綱渡りをからくも渡っている、そんな人生を私は許容しつつあった。  そう、あのエックハルトとして、このエックハルトは私に対しては振る舞う。あの純粋な愛情を、この私に向けてくる。それから私が交通事故に遭わないかと、余計な心配をする、いつも。  それとも、もしかしたら余計ではないのかもしれない。外を歩いている時なんかに、エックハルトは不意に私の手を強く握ることがある。ちょっと恥ずかしいし、その握る力が強すぎて文句の一つも言いたくなるけど、彼は彼で、時々注意散漫になって車道の方にふらふら歩いていきかねない私のことが危なっかしくてしょうがないらしい。  年下のこの人にお守りされているという解釈は腹立たしくもあるけど、でも気を遣ってくれているのは素直に感謝するべきなんだろう。もう今は現代人のはずなのに、手の甲に口付けみたいな気障ったらしい真似も平気でする男だから、それは本当に恥ずかしいけどね。  そう、一番大事なことだ、私に対してのエックハルトについて。  これは、ベッタベタに甘えてくると言っていい。私は溺愛されたいと思ったことはないけど、エックハルトは溺愛系だ、甘やかしてくるんじゃなくて甘えてくるという意味の。正直、甘えると甘やかすにどれだけの違いがあるか分からない。甘やかされているというにはこの人、そんな風に依存するには不安が大きいというか、甘やかしていると解釈されるのは腹が立つというか。でもこんな、私よりずっと背が高くて凛々しい大人の男性が実は甘えたがりというのは、まるで大型犬みたいで可愛らしい。ついついほだされそうに、甘い顔してしまいそうになる自分を内心で戒めつつ、私は努めて普段のペースを保とうとしている。  でもいつでも従順なわけではないし、時々どっかしら性格悪いのが垣間見えることもある。それに彼は私に好きと言わせたくて、そのためならなんでもやる。ようはこのエックハルトはこのエックハルトなりに不埒だと、そういうこと。  ごめん、そうじゃないね。やっぱり私は、エックハルトのことを茶化しすぎている。私はもっと真剣に考えなければならないと思う、彼を本当に愛すると決めたことを。  私は本当は怖いんだと思う。私が自己決定権の全てを明け渡してしまってから、私の全てを知られてしまってから、彼が人生をかけて愛するような価値のある存在じゃなかったと理解されてしまうことが。  決して塞がることも癒えることもなく、ただ天に向かって開いていただけのあのエックハルトの心の傷は、一度死んで最初から人生をやり直したって跡形もなく消えてはくれなかった。血を流したり膿んだりすることがなくなっても、それは歪な形の痕になって残っていて、それがある限りは、彼の一番の理解者は私でいられると思う。私でない誰かなら、もっと上手にその傷を癒やして、消してしまうことすらできるかもしれないけど。そうなったら、私はどうなる? そうなった暁にも、このエックハルトがあのエックハルトと同じ人だと私に思えるだろうか。それは死よりも忘却よりも決定的に、あのエックハルトの存在を消してしまうことにならないだろうか。  私はその日が来る可能性に、心の底では怯えていると思う。でもそれって、このエックハルトの幸せを願っているのではなくて、どこかしら不幸を抱えて生きることを願っていることにならないだろうか?  なんで私は怖がってるんだろう? こんなに幸せなのに。私が幸せになっていいのか、それが分からない。この私がこんな美しい人に愛されて、求められて、大事にされるなんて、やっぱりどこか間違っていて、そのうちこのつけを倍返しで払わされるんじゃないかって杞憂に陥っているのかもしれない。  私がエックハルトに、こんな風に必要とされている理由。彼は多分、魂の深い飢えを満たす過程にあって、私は彼に摂取されている。あの昔のエックハルトみたいな、愛されているのに同時に頭から喰い殺されそうな張り詰め方がないだけずっと良かったのだけど。  食らうこと。それは昔のエックハルトにとっては大きな問題で、今のエックハルトにとっても少し問題だった。  あの世界で生きていたエックハルトには味が分からなかった、そんな風に私は今のエックハルトから聞いた。甘味と旨味に偏った味覚障害なのか、精神的なものなのか。強靭で嫌味なポーズを取り続けていた正気の時のエックハルトが見せた内面のストレスの表現だったのかもしれない。  今のエックハルトには味が分かる、それは良かった。一緒にごはんを楽しめるから。だけど、彼は料理が下手だ、お茶だけは淹れられるのが奇跡ってぐらいに。それから、自分一人ではごはんを楽しむのすら下手だ。朝はリンゴ丸かじりに焼いてないパン、エネルギー切れてきたらパックゼリー、それからその辺のコンビニのデリコーナーで適当に買った何も美味しくないサンドイッチ、そのエネルギーも切れて虚脱、栄養バランスは牛乳がぶ飲みしてサプリとプロテインで補う。そんな生活で、悪食と言わざるを得ない。別に今の親御さんが酷い食生活をさせていたわけじゃないらしいので、これは彼の特性だ。 『あなたと一緒なら、何でも美味しい』  そんなことを彼は言う。それも味覚が雑すぎるんじゃないのと思わないこともないけど、凝っているとか熟達しているとは言い難い私の手料理を美味しく食べてくれるのだから、それはそれでいい。  それでも私にはやっぱり、どうしても折り合い切れないことがあった。  週末の夕方のことだった。エックハルトは、ソファで丸まっていた。週末といえど彼は忙しい。資料を片手にずっと仕事をしていたのだけど、疲れてきたようだった。疲れている時もエックハルトはそうは言わないで、だけど、段々と動きも返答も鈍くなってきて、終いには動作が止まってしまう。  彼が読んでいた資料は今は、テーブルの上に束になって置かれている。その上には黄色っぽいレンズで、度が入っていない眼鏡。昔のエックハルトは射撃の名手だったけど、今のエックハルトだって視力は悪くなくて、仕事中に眼鏡を掛けるのはブルーライトを遮断して視力を保護するためだった。それから、服装は薄手の黒のスウェットの上下で、素足をソファの上で揃えていた。外ではいつもさりげないけど瀟洒な出で立ちを見せているこの人は、室内ではこんなしどけない姿になっている。  この頃の私は、語学学校の課題を終えてしまうと手持ち無沙汰になりがちで、日々の研鑽が明らかに足りていない。日々努力を重ねているエックハルトとの差を埋めることができないでいた。そして今は疲労困憊しているエックハルトの傍らに腰掛けると私は、手を伸ばして、彼の頭を撫でてやる。 「…………」  エックハルトは黙ったままで、金色の目で私を見返してくる。どうしたって上手くは形容することができない不器用な真摯さが、その視線には現れている。  彼の金色の目に、私はいつかの満月を思い出す。  時間が溶けて、消える。そんな錯覚。正気を失いそうな感情の揺らぎ、それでいて音を決して立てない静かなその波に私は囚われる。  だってその目は、遥かな昔、私たちが容易ならぬ問題を抱えていた時のこと。顔には決して出さないけど、あの時も疲労困憊していたエックハルト。そんな彼に、私が自分から歩み寄った、あの満月の夜。  私を見返したあのエックハルトの目と同じ目で、このエックハルトは私を見返すのだから。  ねえ、奇跡って、こういうことなの。これが奇跡なの。  他の誰にとっても取るに足りないだろう、だけど私にとっては致命的な、そして運命的な、ただこれだけを待ち望んだ、小さな小さな奇跡。  それなのに、私が彼に与えてやれるものは、あまりにも少なくて、貧弱だ。  そうしていたのは、どれだけの時間だっただろうか。外の暗さに改めて私は気が付く。それから躊躇いつつ、私は口を開く。 「あなたに、自分の人生を捨てさせてしまった」  そんな謝罪すら虚しい欺瞞でしかない。だってその文脈において、私が謝りたいのはこのエックハルトじゃないのだから。  エックハルトは一瞬悲しげな表情になる、が、やがて静かな声で答える。 「捨ててはいないよ。僕は57歳まで生きて死んだ、あの世界で。リヒャルトとアリーシャのことも見届けた、僕の命運が尽きるまでは」 「…………」  私は黙り込んでしまう。  そうだ、エックハルトの死。  このエックハルトではないあのエックハルト。彼は、結局伴侶は持たないまま、57歳の生涯を閉じた。  私はその生涯の短さのことを思わずにはいられない。彼の人生、彼の選択は、本当にそれでよかったのか。才覚にも容貌にも恵まれて、心の傷さえなければ、悩んだり苦しんだりする必要なんてなくて、もっと幸せな人生を送れたはずだったあのエックハルト。  でもそれは同時に、彼があれから17年間も耐えたということでもある。それは、どれほど辛かったんだろうか。そんな風に辛い年月を過ごさせたのは、私のせいじゃないのか。そんな頼りない約束を守らなければならないほどに。 「ちゃんとしたよ、僕なりには。食べるのが、咀嚼の一噛み一噛みすら苦痛だったこともある。でも元気でねって、あなたが言ってくれたから。僕が生きているどの瞬間だって、別の世界にいるあなたが心配しているはずだから、約束を守らなければ、そう思って生きることにした。そうでないと、二度と会えないと思ったから」  エックハルトは感情を表さず、淡々と語っている。一方の私は対照的に、こみ上げてくる感情を抑えられなかった。 「…………うー。うう……ん。んー」  そんな幼児の喃語みたいな呻き声を上げているのは、私が泣いているからだ。  起きているのが記憶の継承だけだとすると、そのエックハルトはたぶん、今ここで生きているエックハルトではない。つまり、このエックハルトにはあのエックハルトの経験の記憶があっても、あのエックハルトがこのエックハルトの経験を自分のものとして感じているわけではないことになる。今こうして私たちが出会えたことは、あのエックハルトがあの『若葉』と再び出会えたことを必ずしも意味していないのだ。  私はエックハルトについて考えるときはいつも、前世とか、転生という言葉を避けている。この不可思議なシステムでも、あのエックハルトを完全に救うことはできないことを忘れたくないからだ。人間の死はあくまでも人間の死であって、取り返しがつかないものだと私は思っている。  そしてあの世界の『私』も、あくまでもアリーシャから分離した人格で、アリーシャの中からは消えてしまった。そして私はその記憶を持っているだけなんだと思う。だから、エックハルトも、『若葉』も、あの世界で死んだ、あるいは消えた私たちと、今の私たちは、同じであって違う存在。  でも、魂は? 魂のことは分からない。もし魂が確かにあるとして、あの世界で私は魂として確かにいて、生霊としてアリーシャに憑依していたとか、こっちの世界のエックハルトもあの世界のエックハルトと魂は同じだとすると、もっと救いのある話になる。だけど、それは気休めでしかないかもしれない。事実は、あのエックハルトは死んだ、それだけだ。  私は、膝の上で握った拳に涙をボタボタ落としていた。エックハルトは結んだ私の手を開かせて、指の間に指を絡めて、握る。 「それだけじゃない。人を信じてもいいと思えるようになった、やっと。リヒャルトのことも、アリーシャのことも。だって僕にはあなたがいるから、少しぐらい誰かに裏切られたって、僕にとって期待外れだってどうってことはない。だから、あなたは僕を救ってくれた、本当に。そう言って僕が自分を追い詰めているだけだと、そう思っていたでしょう? でも、違うんだ」 「……もう少し早く、行ってあげれば良かった。大丈夫だよって、言ってあげられれば、もう少し早く」 「どうかな。もしそうだったら、未練が断ち切れなかったかも。僕の方が。だから、これでいいんだ」  私は黙って、顔を覆ってしまう。エックハルトは静かに、私の傍らに座っている。 「僕は、ここにいるから。……泣かないで」 「違う。泣いてない。…………あのさあ」 「若葉?」 「なんで、そんなに可愛いの! 57ってさあ! さすがに予想外ですけど? そんな歳になってそんな可愛いこと言われてたら、私どうしていいかわからないんですけど? 嫌味で気障ったらしい伊達男気取りの女誑しだったはずじゃん、元々さ! なんでそんな風になっちゃうの! ねえ、それでいいわけ?」  と言いながら、私は半分以上泣いているのだったが。 「……僕は」  何故かエックハルトは、言葉を失ったように言い淀む。私は自分が失言をしかけていることに気が付く。 「そういうさ、不埒な所も結構好きだったんだけど、私はね?」  違う、これでは取りなしになってない。エックハルトはむすっとした顔になって、私は慌てる。過去の世界のことで、話題が微妙な部分に差し掛かると彼は不機嫌になる。昔の彼にも、それから今の彼にも思うところは色々あって、その心の襞までは容易に説明できないのだろう。  それにしても、ちょっとおかしくない? あの世界での私の記憶の最後は、アリーシャは確か30歳で、リヒャルト様は26歳。今の私たちとちょうど同じ年齢だけど、二人ともずっと大人だった。よそはよそ、うちはうち、でもなんで私たちはこんなに幼稚なんだろうか。 「ええと、あの、その。ごめん。あのさ、そうじゃなくて。違う、あなたが可愛いって言いたいだけ」  恐る恐る、エックハルトの方に私は手を伸ばす。説明した方がいいのか、なんでいつまで経っても、私がこうして悪びれているのか。 「……ええとさ。あなたが私みたいな女とは違う世界の人だったとしても、私は好きだった。その、綺麗なのに人間くさい所が。あなたが現実にいる私を見てどう思ったとしても、嫌いになんてなりたくない。でも、今は女として愛してしまった。どうする? 私が嫉妬したら。もっとあなたに相応しい人が見つかっても、私が嫌だ、離したくないって喚いたら」  こんな、みっともない女の私が。世界一可愛いとか頭がおかしいことを時々彼は言うけど、ごく客観的に冷たい目で見て、私とエックハルトを並べたときに、釣り合っているなんて私には言えない。  それでも、私は彼に向かって手を広げてみせる。 「女にされちゃったんだよ、あなたにさ。どうしてくれるの、責任取ってよ」  エックハルトは私の片手を取って、もう片方の手で私を引き寄せる。そして今は、ソファの上で足を伸ばしている彼の脚の上に私が乗る形になっている。彼の素足、その白い足の指に目をやって私は慌てる。足の指ですら信じられないぐらい長くて、そして器用なのだ。彼はその足の指で私の足先を撫でて、掴むことがある。  違う、そんなことより顔だ。エックハルトは、私の首の方に片手を移して視線を合わせてくる。いつも私はたじろいでしまう、その金色の目で見られると。 「…………責任」  今しがた自分で発した言葉を私は繰り返す。責任取ってくれようとしてるの? 違う、そういう意味じゃなくて、私が言いたいのは。 「賭けは僕の勝ちだ。僕が孤独で、全世界から切り離された人間でなくなっても、僕はあなたを愛している」  私に好きと言わせるためなら、この男はなんでもする。さっきの拗ねたような顔は演技だったのかもしれない。いや、こういう主張はむしろ、彼の当然の権利なのか。 「あなたには想像もつかないでしょう。あの日、あなたと別れた後の僕が、吐きそうなぐらい泣いていたことが。だってあれは、生と死への、永遠かもしれない別れだった。本当にそうだった」  エックハルトは私を見据えながら、同時に彼の記憶の中の、遠くの時間を見ているようだった。そうしながら彼は言葉を続ける。 「あなたは、僕という罪深い存在を赦すためにあの世界に現れた。内面ではほとんど怪物と化していた僕に、あなたは手を伸ばしてくれた。あの最後の日ですら、僕はあなたを引き留めたかった。あなたは生きていていい存在だって言いたかった。でもそれはきっと、あなたを余計に苦しめるだけだったから。本当に大好きだった。あなたに出会えて良かったと、それだけを繰り返していた。だからこの今は、神様が僕に一つだけ赦してくれた奇跡で、決して失えない。あなたはやっぱり、あまり分かってはくれないけど。違う?」  私は沈黙してしまう、長いこと。  エックハルトは見た目でも態度でも全然分からなかったけど、その内面はずっと純粋で、私の可愛い少年だった、その57年間の生涯の最初から最後まで。彼は多分あの世界で死んでいて、あのエックハルトだった意識はもう存在していない。そう言っていいのだろうか、私たちの物語には時間軸上の座標の一致にあまり意味がなくなってしまったから。つまり、その同一性を保った一個体の生命はあの世界の限られた時空間には存在しているとはいつだって言うことができるが、だけど、この世界のどの時空間にも存在してはいない。だけど彼は、その記憶を今ここにいる私のところまで持ってきてくれた。ただのお伽話みたいなあの約束で。  あの言葉がなかったら、物事はどうなっていたんだろうか? 強く念じること、それ自体が現実に作用する、それは非科学的な、非現実的な考え方だ想いが叶う、それはそうなる未来に向かって努力できるからだ、普通の世界の現実では。  じゃあ、絶対にどうにもならない運命に対しては、願うことには意味があるのか? 意味はないのかもしれない。だけど、私たちは願ってしまう。奇跡の生還を、一万回の失敗の後の、たった一回の成功を。それが世界を動かす冷たい歯車の歯のたった一つだけを欠けさせ、絶対に勝てないゲームの盤面を引っくり返す、その日を私たちは待ち続けている。バタフライエフェクト、蝶の羽搏きが巻き起こす僅かな大気の擾乱がやがて嵐となって地上に恵みの雨をもたらす奇跡を、私たちは願い、祈る。  私は考えてしまう。もしかしたら、元々の運命では、私は助かっていなかったのかもしれないと。この世界はきっと、新井若葉が『死んだ』世界とは、ループ0の世界とは違う世界なのだ。私たちのこの旅はタイムトラベルで、私たちがこの時空に戻ってきたことで、新たな平行世界が生じた。だから、2411年の世界滅亡すら、私たちが生きているこの世界では確定した未来ではない。  だけど、未来への道標はあの世界、アリーシャたちがいる世界線よりはずっと頼りない。ループ0の世界との明らかな違いは、今私たちが持っている記憶ぐらいしかない。他にももっと何か、確かな違いがあってくれればいいのだけど、それは多分これからの未来にしかないのだろう。  それでも彼があの約束をしてくれたから、彼も私は今、ここで生きている。この先もこの世界で、ずっと幸せに生きていきたい。その願いだけが、今のこの世界の私たちを生かしていてくれているのだと。  これは私の迷信かもしれない。でも記憶と多世界と歴史を巡る私たちのこの不可思議な旅では、そんな突拍子もない想像の話すら、あり得ないとは言い切れなかった。  エックハルトは私の耳元で囁く。 「『悠悠生死別経年、魂魄不曾来入夢』」 「……え??」  さすがに私は聞き返す、だってそれは中国語だった。  エックハルトに関して、もう一つ話がある。どうやら東洋人らしいと、私の印象についてそれだけ思い出した彼は、私と巡り合った時には話ができるように言語を学んでいた、確率考えて一番話者人口の多い中国語。そこで外すのがいかにもポンコツな今のエックハルトらしい。それに私はあの、ドイツ語と似ているけど少し違う、あの世界で使っていた言語を結構覚えていて、それを何とか今の世界の普通の言語に近づけようとしている。一方の彼は、あの世界から遠ざかって長いし、言語の類似もあって、大体普通のドイツ語の方で喋る。私が理解できない時には前の世界の言葉を思い出して、もしくは英語で喋ってくれる。コミュニケーションに難はあるけど、辿々しさ一辺倒でもない、私たちの会話はいつもそんな感じだった。 「……あ」  彼が何のことを言ったのか、示すために差し出した本。そこに書かれていたのは、私も知っているあの漢詩だった。長恨歌。玄宗皇帝に寵愛された楊貴妃の死を詠った詩。長い恨みの歌と書くけど、それは想い続けるという意味らしい。 (やっぱり、変わり者、だなあ)  そんな風に私は思う。日本人である私なら、古典の勉強をしているのなら、漢詩を日本語に置き換えて読み下すなんて大したことじゃない。でもエックハルトは違う。彼にとっては完全な外国語だし、しかも現代で使われている言葉じゃないし。今のこの人、もしかしたら私の同類なのかもしれない。人には理解されなさそうなことに限って情熱を傾ける雑学オタク。 『悠悠たる生死別れて年を経たり、魂魄曾て来たりて夢にも入らず』  生と死に別れたまま長い年月を過ごした、きっとエックハルトにとっては本当にそうだった。私にとっては一年弱、それでも体感としては十分長かった。だけど、私は何度か夢に見ていた気がする。アリーシャと、リヒャルトと、エックハルトと、それからみんな。何も変わらず生きている姿を見て、ああよかった、私は間違っていたんだ、そう思った。でも目が覚めてみればそれは辻褄が合わない夢だった。夢は心を一瞬だけ、現実の苦しみから解放してくれる、だけど実際に起こったこととは違う。夢で会えても、夢で出てきた影が大丈夫だって言ってくれても、それは実際の彼が大丈夫だってことを意味しない。そんな夢から覚めるたびに私は心の痛みに、無意識の裏切りに喘いだ、彼にもう一度会えるまでは。  他の箇所を見ても、私自身にぴったりした表現は見当たらないように、私には思えてしまう。分かるかな? 古の物語や歌は、ほとんどが美しくて高貴で、それによって神にすら至るような男女の愛について謳われている。地を這いながら天を仰ぐ者のための歌、それは自分たちだけが知っていて、生きている限り、魂の限り歌い続けても、死んでしまったら大抵の場合は、誰も思い出してはくれない。だからこそ生きて、この世界に残し続けなければならない、自分自身の爪痕を。  エックハルトは物語に相応しい。だけど私は違う、それは見た目だけの問題じゃなくて。知性でも、感性でも、意志の強さでも、私は彼に全然及んでいない。私は変われるかな? 努力すれば。こんなちっぽけで、若くすらない今の私でも。それでも差は圧倒的で、私が彼の物語の終着点として存在しているべき澪標だとは、私には思えないのだ。  私たちが生きているのは天国でも仙界でもなくて、あちらとこちらで同じように俗悪さに塗れながら、暗闇の中で自分の誇りの在り処を探している、そうやって必死で生きている人間の世界だ。エックハルトが探していた究極の答え、虐げられることも踏みにじられることもなく自由に生き方を選べる世界は、あの世界では確かになかった。でも、だからと言ってこの世界がそうだとは私には言えない。  答えはない。問いが変わっただけ。この世界でもう一度問い続ける人生があなたに与えられただけ。違いはと言えば、私が生きていることだけ。この平凡な女でしかない私が、あなたの隣にいることだけ。 「……ねえ、私で、いいの。本当に。本当にあなたがいいなら、私はそれでいい。あなたが良くなかったとしたら……」  その後を続けようとした私をエックハルトは押し留める。 「……自分がいなくなった方がいいんじゃないかなんて言わないで。あなたがいなくなったら、僕の心はまた引き裂かれて痛む。だから、どうか」
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