1章12話 些細な兆候 *

1/1
前へ
/106ページ
次へ

1章12話 些細な兆候 *

【新帝国歴1128年12月1日 エックハルト】  アリーシャとリヒャルトの歴史談義の様子を眺めながら、エックハルトにはある思い、気がかりがあった。リヒャルトがその気がかりを意に介することもなく、全くの無謬であるかのように振る舞うのも、エックハルトには頭の痛い問題だ。  それにしても、アリーシャの警戒を強めすぎてしまったのかもしれない。軽率な振る舞いはするなという脅しとしては十分かもしれないが、こうも険があると、逆に彼の仕事には差し支えが出てくる可能性もある。 (まあ、どうでもいいのだが。それ自体は)  言い聞かせるようにエックハルトは考える。感情を動かされそうな物事からは、エックハルトは努めて距離を置くことにしていたし、それに彼は本当は、女を相手に歯の浮くような、そして落ちのつかないお世辞を並べ立てるよりは、多少は緊張感のあるやり取りの方が退屈しなくていい、という性向の持ち主だった。 (それでもまあ、少しからかいがすぎたか)  エックハルトは、それについても少し考える。  路地裏でアリーシャに絡んだごろつきに凄んでみせて追い払ったエックハルトだったが、彼にしてみればそれはほんの余興といったところだった。  まず、裏社会の顔役と通じているかのような言動だが、特に深い関わりがあるわけではない。その意味では実際、単なるはったりだった。だがそれは、はったりが露見してエックハルトが窮地に陥る可能性を意味しない。裏社会の顔役程度の人物に君主の側近をどうにかするような力はない。そもそもごろつきを追い払う程度のことで、裏の顔めいたほのめかしをする現実的な必要性はなかった。  それは言ってみれば、ごっこ遊びだった。エックハルトは退屈していた。宮廷では優雅で瀟洒な物腰を崩さないエックハルトだが、その内面にはどうしようもなく荒んだ部分がある。それは彼なりに切実な問題で、時々解放しなければ社会に向けている公的なポーズに支障が出る。  路地裏に用があったのも、エックハルトの荒廃した内面に関わっていた。そこから生じる問題を解放する手っ取り早い手段の調達に訪れた、それだけの話だった。それはある意味背徳的とは言えたが、この時代では犯罪とは看做されないし、他の誰にも関わる話ではない。権力者の側近として致命的な弱味を握られるようなヘマをやらかさないことはエックハルトの信条だった。  そんな風にエックハルトは不埒な男だったが、自身の私生活と仕事は分けて考えていた。リヒャルトの廷臣で懐刀、そうなるために捧げられた存在であって、それ以外は虚無、というのが、エックハルト・フォン・ウルリッヒが生きている人生だった。 (それよりも、問題は、だ)  と、エックハルトは考える。  アリーシャとリヒャルトが最初に言葉を交わしたあの謁見、その後のリヒャルトの様子を、エックハルトは思い返していた。 【新帝国歴1128年7月13日 エックハルト】 「殿下」  謁見室を去ったアリーシャを見送った後謁見室に取って返したエックハルトは、リヒャルトに声を掛ける。 「…………」  リヒャルトは無言だった。椅子に斜めに腰掛けて片膝を立てており、何か考え事をしているかのように拳を口元に当てている。 「品が悪いですよ。その姿勢」  人目のない所ではリヒャルトは姿勢を崩しがちだ。そういう行動が無意識に人前で出ないとは限らず、目にするたびにエックハルトは注意している。  エックハルトの言葉にリヒャルトは座り直すが、なおも何か考えているようで、片手で顔、それから口元を覆う。 「何だ、今の」 「先程の彼女ですか?」  エックハルトは少し訝しむ。 「なあ、何だったんだ今の会話は? あんな女いるか? 今まで見たことあるか?」  リヒャルトはそんなことを言いながら、顔を赤くしてすらいる。  先程の謁見で、リヒャルトが肩を震わせていたことをエックハルトは見過ごしていなかった。普段のリヒャルトは冗談を解する素振りを見せることはないし、ましてや笑いを堪えていることなどほとんど無かった。 「そうですね、私の経験では……」  答えかけたエックハルトをリヒャルトは遮る。 「いや、いい。お前の女性経験は聞いてない」 「まだ何も言ってませんが」 「女に関するお前の話がろくなもんだった試しがないからな」  いかにもませた、それでいて少年じみたそのリヒャルトの言葉に、エックハルトは軽く嘆息する。 (色気づいたか?)  そんな不敬な物言いがエックハルトの脳裏を過ぎる。  リヒャルトに言わせればろくなもんではないというエックハルトの経験だって、彼の役に立たないとは言えない、特に、歳若い君主という特殊なリヒャルトの立場を鑑みれば。女であることを武器にして、リヒャルトの弱点に付け入ろうとする女がいないとは言えない。むしろ、いると考える方が自然だ。  幸いにしてと言うべきか不幸にしてと言うべきか、これまでずっと、リヒャルトは女には冷たかった。理由はただ一つ、少年だからだ。  女に冷たいこと、それにはリヒャルトの生育環境や気性も影響しているだろう。この公国の君主となるべく、リヒャルトは幼少の頃から英才教育を受けている。生来より才気煥発としていたリヒャルトはその影響を十二分に受けていて、ナイフで切るような会話のテンポを好んでおり、それについていけない人間には冷淡だ。  またそれは、リヒャルトが本当に賢いことを必ずしも意味しない、と、エックハルトは思っていた。13歳という年齢でありながら君主として振る舞えるだけの教養を身に付けていたリヒャルトだが、裏を返せばその教養は、君主として振る舞う以上の目的はない。リヒャルトが通り一遍以上の深い見識があるかどうかはエックハルトにすら分からない。  それに人間との微妙な力関係の問題、特に男と女のことは見識だけでは語れないのは言うまでもない。リヒャルトと近い年齢で、才走ったリヒャルトに釣り合う女はなかなかいないだろうが、大人は違う。人の心を捕らえるのは才気だけではないし、結局のところ、その色香で彼を惑わすほどの女性が今までリヒャルトの前には現れていなかった、それだけの話だ。  女性に疎いとか、関心が薄いとか、それ自体はむしろ良いことだった。なぜなら、リヒャルトには婚約者がいるのだから。ヴォルハイム同盟諸国に名を連ねるリンスブルック侯国の侯爵令嬢、ヴィルヘルミーナ・フォン・リンスブルックだ。  リヒャルトは若年のうちにその⾎族を⽴て続けに失い、8歳で君主である公爵位に即位していた。⽗である先代ランデフェルト公ヴィクターは災厄による戦死だった。⺟である公妃ヴァイオラと、まだ赤ん坊だった弟はそれから程なくして、流行病で命を落とした。  これらは全て、リヒャルトに後ろ盾が存在しないことを意味している。リンスブルック侯国との縁戚関係は、今後のリヒャルトの地位を保証する上で重要だ。従って、リンスブルック侯爵令嬢ヴィルヘルミーナとの成婚を恙無く進めることは、公国の⾂下にとっての責務だったのだ。  エックハルトは、さっきの女、アリーシャ・ヴェーバーについて思い返してみる。社交術に長けた完璧な貴婦人、その怜悧さで周囲を静かに圧倒する才女、男心を惑わす魅惑術を心得た毒婦、そのどれでもない。ここで見過ごしてしまえば問題になることもないだろう、そう思えた。  だが、と、エックハルトは思う。だからと言って、アリーシャは普通の女でもない。どこがどう普通でないのかはエックハルトにも上手くは言い表せない。それに、今日のようなリヒャルトの様子を、エックハルトは今まで見たことがなかった。  エックハルト自身のこととは打って変わって、リヒャルトの身辺を綺麗に保っておくことはエックハルトの責務であり、命題だった。些細な兆候でも見過ごせない、だが、何が問題なのかもはっきりとは掴めない。 (この話、このままで済むか?)  エックハルトはそう思い、片手で空を掴んだ。 
/106ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加