2章6話 二人の確執

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2章6話 二人の確執

【新帝国歴1129年4月30日 アリーシャあるいは若葉】  翌日のことだった。私たちは今日も書見室にいた。  ヴィルヘルミーナ様は、読書のお勉強、とのことだった。今日は私は家庭教師の役ではないので、遠目で見守っているだけだ。  分厚く大きな本を広げて、ヴィルヘルミーナ様は文字とにらめっこしていた。柳の葉のような眉の間には、皺が寄せられている。 「もう、嫌ですわ!!!」  突然の悲鳴に、私と、それからエックハルト様までびくっとしたように見える。  ヴィルヘルミーナ様の傍らに置かれていた本がバッサバッサと床に落ちる。どうやら、その本も読まなければならないということらしかった。 (キッツいなあ……)  と、私は少し思ってしまった。  私は、というか、新井若葉は、本を読むのが速い方だ。気分が乗れば一日でハードカバー一冊ぐらいは読めるが、それでも二冊目に手を出すことは滅多にない。アリーシャの人生には若葉ほどの本はなかったので、単純な比較はできない。同じ本を何度も繰り返し読むタイプで、何度も繰り返した暁には凄いスピードで読み進めている。  いずれにせよそれは気分が乗った時の話に限る。子供の頃に気の進まない勉強で同じことをやれと言われたら、どちらもサボるか逃げるかしていただろう。  どうにもこの時代での、教育における子供への要求度が分からない。もしかしたら、子供なんて区別はあまりないのかもしれなかった。王侯貴族に相応しい理解力が、王侯貴族の子女には求められるということなんだろうか。 「……静かにしろ」  その冷たい言い放ち方に、私は冷や汗を掻く。 (……まずいな……)  よりによって今日は、リヒャルト様も書見室での読書に興じておられたのだ。なぜ他所の国に来てまで読書なのか、と、思うところだが、リンスブルック侯国の蔵書には、私たちの国では読めないものがある。  ヴィルヘルミーナ様は、金切り声を挙げた。  昼間に公園とか行くと、女の子が金切り声を挙げていることがある。子供の頃は何の問題もなく出せたのに、大人になるとなぜか出せなくなっている、あの金切り声。  だけど、ヴィルヘルミーナ様の金切り声はヒステリックで、どこか悲痛だった。そして、床に膝を落として喚き出す。 (昨日は、こんな癇癪を起こさなかったのに……)  私はかなり困惑していた。算数の問題の時は、確かに嫌がっていたものの、こんなではなかった。 「……ヴィルヘルミーナ。どうして、普通にできないんだ」  歩み寄り、膝を落としてリヒャルト様は、ヴィルヘルミーナ様に語りかける。その口調は静かで、きつくはなかった。でも、口調だけの話だ。  普通に。  私も、普通にはなれなかった。  その意味も、人生の時期も、彼女とは違っていたけど。  私は、意を決する。  たとえ主君が相手だろうと、口を挟まないわけにはいかなかった。 「……殿下」  私は低い声で呼びかける。覚悟を決めると、案外平静な声が出るものだ。 「ヴィルヘルミーナ様は、パニックを起こされています。今現在、良好な読書環境を確保するのは困難と言わざるを得ません。誠に恐れながら、殿下はご退出いただけますでしょうか」  主君に出ていけと言うなど、あり得ないことだろうと思う。だけど、リヒャルト様は私を一瞥しただけで、静かに部屋を出て行った。  これが公共の図書館だったら、騒ぎを起こしているヴィルヘルミーナ様の方にご退出願わなければならないところなんだろうけど。  それでも。そう。  私の脳裏には、ある言葉が浮かんでいた。   石版では計算できるのに、ノートでは計算できない。  文字の多い本を読むことができない。  たぶん、彼女は。そう。 「エックハルト様。よろしいでしょうか?」  静かに私は口を開く。 「彼女は……たぶん。あの、この国でこの言葉が、どのように響くのか、分からないのですけど」 「何か、おっしゃりたいことがあるようですね」  エックハルト様は静かに答える。正直嫌いな男だけど、こういう時の冷静さと察しの良さは頼りになる。 「ヴィルヘルミーナ様は、おそらく。学習障害です」 「…………」  エックハルト様は押し黙る。この人非人ですらこうなのだから、やっぱり、実際以上に深刻に響いている気がした。 「これからのお話はどうか、先入観を持たずに聞いてくださいな。ヴィルヘルミーナ様は、文字が読めないのではない。でも、本を読むことができない」  私の言葉に、へたり込んでいたヴィルヘルミーナ様はぎゅっと手を握り締めている。  彼女は知られたくなかったことだろう。私は、急いで後を続けた。 「 知能の問題ではありません。本の一ページには、情報量が多すぎるのです、ヴィルヘルミーナ様にとっては。その情報量を処理しきれなくなってパニックを起こす」  正直、この見立てが正しいかどうかはわからない。黒板では勉強できないけどタブレットなら勉強できるとか、人によって学習障害の出方は様々だ。それに私の知識は、自慢じゃないけど浅い。 「凡人であれば本のページを見たところで、その一部しか頭に入ってきません。むしろ非凡な才能と言えます。ヴィルヘルミーナ様に合ったお勉強の仕方があるはずです」
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