3章6話 エックハルトの記憶・2 *

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3章6話 エックハルトの記憶・2 *

【新帝国歴1115年3月23日 エックハルト】  その赤ん坊は、金色と白の意匠の施された揺籠に揺られ、豪華な産着に包まれて、すやすやと寝息を立てている。公爵位の継承者となるべきその赤ん坊が生まれてから、ちょうど2ヶ月が経った日のことだった。  その生き物をこわごわと、エックハルトは覗き込む。新生児らしさが抜けてきて、乳の飲み方も良くなり、どんどんと重くもなってきているらしい。それで、家臣の一人であるエックハルトにもお目通りが許されたのだった。  しばらく見ていると、赤ん坊は目を開け、彼の方に向かって手を伸ばす。その目は信じられないほど青く、透き通っていて、エックハルトは息を呑む。髪の毛はといえばまだ頭の上でふわふわしていて、また色素が薄く、地肌が透けて見えている。 「リヒャルト様ですよ」  傍らの乳母がそう告げると、赤ん坊を抱き上げる。 「抱かせてやりなさい。彼にも」  そう言うのは、今ではエックハルトの直接の主君、公爵ヴィクターだ。 「気をつけて」  その体重を支えられるように気をつけられつつ、赤ん坊のリヒャルトをエックハルトは抱える。つんと甘い乳の匂いが、エックハルトの鼻孔を突く。 「どうして……僕が」  おずおずと、エックハルトはヴィクターに向かって尋ねる。今では、エックハルトはヴィクターの従者の一人で、それに相応しい、小ざっぱりとしながら華麗でもある、宮廷人としての衣装が設えられている。 「何だい?」 「どうして僕が、このような光栄に浴することになったんでしょうか?」  何せ彼、リヒャルトは公爵位の継承者で、地位が向上したとはいえ、エックハルトは一介の従者だ。そんな高貴な赤ん坊を抱えることができるほどの地位に就けたとは、エックハルトにはどうにも思われない。 「それはね」  そこで言葉を切って、ヴィクターは柔らかく笑うと、それからまた続ける。 「君には、これから彼を助けてもらいたい。リヒャルトを、これからずっと」 「どういうことですか?」 「リヒャルトの成長を見守り、長じては彼の政を助けて、必要な助言をして、時には嗜める。そんな存在になってほしい。君に、エックハルト・フォン・ウルリッヒ、その人にだ」  ヴィクターは彼の新しい名前を呼ぶ。普段は歳に似合わない冷静さを備えたエックハルトだが、この場面では気恥ずかしくなって俯く。準貴族の身分というのは、どうにも分不相応で、自分には似合わないような気がエックハルトにはしている。 「できるでしょうか。僕に」  その言葉は、ただの謙遜ではなくて、ある心配からも発したことだった。13歳の年齢までエックハルトはまともな教育を受けてはおらず、見様見真似の見せかけだけで、なんとか取り繕ってきたのだったから。求めても得られなかったそれを今では受けられる身分になっているとはいえ、取り戻せない遅れだって存在している。 「できますよ。我が家の者たちには、そのために頑張ってもらっているのですから」  また、別の声が掛けられる。エックハルトは、また気恥ずかしさで俯くのだ。  ヴァイオラ。公爵ヴィクターの妃だ。  ヴァイオラは美しかった。その淡い色の金髪と、抜けるような白い肌。美しさで評判のローゼンハルト家の三姉妹の中でも、彼女は際立って美しい。  ローゼンハルト家は古くからランデフェルト家に仕える称号貴族の一家系であり、エックハルトはローゼンハルト家の後見を受け、教育についても面倒を見られている。 「ありがとうございます。ヴァイオラ様」  エックハルトは答える。小さな声で、その名前を呼ぶ時には意図しない震えが走る。  リヒャルトも、それからヴァイオラも。  ずっと自分を卑しい者としていたエックハルトには、手を触れることすら許されず、そう思うことすらしないほど、高貴で汚れのない存在だった。  今のエックハルトなら、傍目には卑しく汚れているとは、人は思わないのかもしれない。だが、自分の中身がそっくり入れ替わっているわけではないことを、エックハルトは意識せざるを得ない。自分自身にはある問題があることを、ここに来てエックハルトは意識せざるを得なかった。  まずは、教育の問題だ。その境遇にそぐわないほどの読み書きと計算の能力は身につけていたエックハルトだが、それまでに正式な教育を受けてきた貴族の子弟とは比べ物にならない。従来の破れかぶれの見せかけを、よりもっともらしく見える見せかけで覆い隠す、それ以上の境地に達することができるのかは、まだこの時点のエックハルトには分からない。  思いもしない才能を発揮している分野もあった。この国の騎士階級の嗜みである槍術もだが、それよりも射撃術だ。この時代の銃は精度が低く、正確に狙いを付けても違う方向に飛んでいく。その銃に特有の癖を見抜いて照準を調整することがエックハルトにはできていた。それから筆跡だ。まるで生まれながらの貴種であるような筆跡でエックハルトは文字を綴る。エックハルトの中では、これも見せかけの一種ではあったのだが。  だがそれ以上の欠陥が、エックハルトには存在していた。  エックハルトには、味が分からない。甘味や塩味や酸味、彼の舌はそれを感知することはできるが、美味しいとか不味いとか、感じることができないのだった。  それが何故なのかは分からなかったし、それを人に告げたことはない。  今までとは全く違う上等で美しい料理を皿に並べられても、心からの感動がなく、美味しいと答えることにはエックハルトは内心で苦労していた。その分、食事に心を奪われることがないために、テーブルマナーを取り繕うことに集中できていたのだが。この地域でのテーブルマナーの歴史は案外浅く、特に複雑なルールは、先進的な貴族階級を象徴する嗜みの一つだった。  そんなこんなで、主君の妻であり、後見を受ける家の縁者であるヴァイオラに対しては、いつもエックハルトはたじろぐ。美しく、高貴で、汚れのない存在である、22歳のヴァイオラと、外面はどうにか取り繕っている、けれども内面は粗野な獣のような、14歳の少年エックハルト。  そんなエックハルトを見て、ヴァイオラはいつも、穏やかな笑みを浮かべている。それから、公爵ヴィクターも。歳と境遇に見合わない冷徹さと怜悧さを備える少年のエックハルトが、こういった場面では萎縮して恥じ入っている、そんな顔をみて二人は、楽しそうに笑う。  それからエックハルトは意識せざるを得ない、自分が男性として、ヴァイオラに惹かれていることに。彼女は人の妻、それも自分の主君の妻でありながら、それでも。今ではこうして行儀良く従者の地位に収まっている。しかし実際には14歳にして裏通りの事情にも精通していて、求められれば娼婦を都合することだってできる、ヴィクターやヴァイオラが生きてきたような綺麗な人生を送ってはいないのだ。そんな薄汚い自分を意識しているのが、この頃のエックハルトだった。  とにかくそれが、それまでずっと不遇だった少年エックハルトがやっと得た、穏やかな人生の日々だった。それがある些細な事件によって、不意の中断をされる前までは。
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